会見は、同盟の確認だけではない
信長と道三は、天文18年(1549)に道三の娘・濃姫が信長に嫁いだことで、婚姻を通じた関係を結んでいました。その2年後に信長の父・織田信秀が病死し、信長が織田家の家督を継ぎます。尾張と美濃は隣り合う大きな勢力で、協力と緊張の両方を抱える地域でした。天文22年(1553)、冨田の正徳寺(聖徳寺とも表記されます)で行われたとされるこの対面で、道三は信長の才能を見抜き、「山城が子供、たわけの門前に馬を繋ぐ」、つまりいずれ自分の子らが信長の家来になるだろうと、美濃の行く末を案じたと伝わります。
「うつけ」から、見極められる信長へ
よく知られるのは、道三が信長の姿を見て評価を変えたという逸話です。信長が茶筅髷に派手な出で立ちで現れた、という描写は江戸時代の史料『老人雑話』(学者による聞き書き)に見えるもので、同時代に近い記録『信長公記』にはこの記述がありません。物語として印象的ですが、会見の詳しい演出や発言をそのまま史実と断定することはできません。
| 確実に押さえること | 天文22年(1553)、信長と道三の会見が伝えられ、道三が信長の才能を見抜いたとされること。尾張と美濃の関係を考えるうえで重要な出来事です。 |
|---|---|
| 注意したいこと | 会見地は冨田説・苅安賀説があり、舞台となった寺自体も大浦(今の岐阜県羽島市)で建てられた後、苅安賀・冨田(今の愛知県一宮市)へと移り、江戸時代には清須を経て名古屋へ移転しました。会見当時の寺の跡は、江戸時代にはすでに残っていなかったと伝わります。 |
| 読むポイント | 会見を、信長の人物評価の逸話としてだけでなく、尾張と美濃が長く関係を持つ入口として見ること。 |
ここだけ覚える
- 正徳寺(聖徳寺)の会見は、天文22年(1553)に信長と斎藤道三が会ったと伝わる出来事。
- 会見地や、信長の服装をめぐる逸話には諸説・伝承があり、そのまま史実とはできない。
- 道三の死や美濃の内乱を経て、信長が美濃を得る永禄10年(1567)へとつながる入口になる。
参考にした資料
- 一宮市「聖徳寺跡」(会見の経緯と聖徳寺の移転)
- 岐阜市「道三塚」(道三の生涯と長良川の戦い)
- 岐阜市「岐阜城の歴代城主」(信長の稲葉山城攻略と歴代城主の変遷)
- レファレンス協同データベース(国立国会図書館)事例(信長の服装の逸話の典拠史料)
会見の年次・場所・詳細なやりとりには諸説があります。本ページでは、史実として確認できる範囲と、江戸時代の史料に基づく伝承を分けたうえで、会見前後の尾張と美濃の関係の変化を中心に整理しました。