事件・合戦ページ / 1553年ごろ / 尾張と美濃を結ぶ対面

正徳寺の会見しょうとくじのかいけん

信長と、美濃の斎藤道三が会ったと伝わる出来事です。
会見の細部や場所には諸説がありますが、天文18年(1549)に道三の娘・濃姫が信長に嫁いで結ばれた同盟の上に立つ対面で、尾張と美濃の関係を考えるうえで重要とされます。信長が美濃を得るのは、この対面から十数年後の永禄10年(1567)です。

織田信長斎藤道三濃姫尾張と美濃

会見は、同盟の確認だけではない

信長と道三は、天文18年(1549)に道三の娘・濃姫が信長に嫁いだことで、婚姻を通じた関係を結んでいました。その2年後に信長の父・織田信秀おだ のぶひでが病死し、信長が織田家の家督を継ぎます。尾張と美濃は隣り合う大きな勢力で、協力と緊張の両方を抱える地域でした。天文22年(1553)、冨田の正徳寺(聖徳寺とも表記されます)で行われたとされるこの対面で、道三は信長の才能を見抜き、「山城が子供、たわけの門前に馬を繋ぐ」、つまりいずれ自分の子らが信長の家来になるだろうと、美濃の行く末を案じたと伝わります。

織田信長

父・信秀の死を受けて尾張織田家の家督を継いだばかりの若い当主。この後、弟・信勝との家督争いを経て尾張を統一していきます。

斎藤道三

父・長井新左衛門尉の跡を継ぎ、守護代・斎藤の名を継いで勢力を広げた実力者。守護・土岐頼芸を追放して事実上の美濃国主となり、娘・濃姫を信長に嫁がせて尾張と結びます。

濃姫

道三の娘として信長に嫁ぎ、両家の関係を示す存在でした。母・小見の方の一族を通じて明智光秀あけち みつひでと縁戚関係にあったとも伝わりますが、婚姻だけで政治的な対立が消えるわけではありません。

「うつけ」から、見極められる信長へ

よく知られるのは、道三が信長の姿を見て評価を変えたという逸話です。信長が茶筅髷に派手な出で立ちで現れた、という描写は江戸時代の史料『老人雑話』(学者による聞き書き)に見えるもので、同時代に近い記録『信長公記』にはこの記述がありません。物語として印象的ですが、会見の詳しい演出や発言をそのまま史実と断定することはできません。

確実に押さえること天文22年(1553)、信長と道三の会見が伝えられ、道三が信長の才能を見抜いたとされること。尾張と美濃の関係を考えるうえで重要な出来事です。
注意したいこと会見地は冨田説・苅安賀説があり、舞台となった寺自体も大浦(今の岐阜県羽島市)で建てられた後、苅安賀・冨田(今の愛知県一宮市)へと移り、江戸時代には清須を経て名古屋へ移転しました。会見当時の寺の跡は、江戸時代にはすでに残っていなかったと伝わります。
読むポイント会見を、信長の人物評価の逸話としてだけでなく、尾張と美濃が長く関係を持つ入口として見ること。

信長が美濃を得るのは、会見から十数年後の永禄10年(1567)です。 その間に、弘治2年(1556)の長良川の戦いで道三が息子・義龍に敗れて世を去り、義龍の急死後は孫の龍興の代に、美濃三人衆と呼ばれた重臣たちが信長側についたことで美濃は内乱状態になりました。信長自身も弟・信勝との家督争いを経て尾張を統一しています。だからこそ正徳寺は「すぐ美濃を取る前触れ」ではなく、両国が長く関係を持つ始点として読むのがよいです。

ここだけ覚える

  • 正徳寺(聖徳寺)の会見は、天文22年(1553)に信長と斎藤道三が会ったと伝わる出来事。
  • 会見地や、信長の服装をめぐる逸話には諸説・伝承があり、そのまま史実とはできない。
  • 道三の死や美濃の内乱を経て、信長が美濃を得る永禄10年(1567)へとつながる入口になる。

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参考にした資料

会見の年次・場所・詳細なやりとりには諸説があります。本ページでは、史実として確認できる範囲と、江戸時代の史料に基づく伝承を分けたうえで、会見前後の尾張と美濃の関係の変化を中心に整理しました。