堅田の戦いとは?
1570年11月、志賀の陣の最中に、琵琶湖の水運の要・堅田へ入った織田方の坂井政尚が、朝倉軍に攻められて討死した戦い。この敗北の2日後に将軍義昭が仲介に動き、和睦への流れが決まった。
堅田衆の内応——湖の要から、3人が信長に通じる
志賀の陣は、信長と朝倉・浅井軍が比叡山を挟んでにらみ合ったまま、2か月を過ぎていた。この膠着を破る鍵になったのが、湖西の町・堅田である。琵琶湖がいちばん狭くなるくびれに面した堅田は湖上交通の要で、水運を握る堅田衆が、守護の六角氏ですら完全には支配できない自治の町をつくっていた。
内応した3人 人質を出して信長方へ
11月25日、堅田の猪飼野甚介・馬場孫次郎・居初又次郎の3人が申し合わせ、「御味方の御忠節仕るべし」と信長方に通じてきた。織田方は人質を受け取ったうえで、この内応に乗る。
なぜ堅田か 朝倉軍の生命線
比叡山に籠もる朝倉・浅井の大軍は、湖上の連絡路で支えられていた。堅田を押さえれば、その補給を断てる。
夜中の突入——坂井政尚ら千人が、堅田へ入る
内応を受けた織田方の動きは速かった。その日の夜中のうちに、坂井政尚・安藤右衛門・桑原平兵衛の3将が堅田へ入った。
突入の部隊 千人ほどの美濃衆
率いたのは織田家の部将・坂井政尚。兵力は千人ほどと伝わり、美濃衆を中心とする部隊だったとみられる。
突入の意味 成功すれば包囲が崩れる
湖上の連絡路を断てば、比叡山に籠もる大軍の補給は細る。一方の堅田は、朝倉軍が布陣する坂本のすぐ北にあたり、織田方の本隊からは遠い場所だった。
朝倉の即断——「時が経ってはかなわない」、多勢で攻め込む
織田方が堅田へ入った翌26日、越前勢の攻撃が始まった。守る側に町の防備を固める時間はなく、多勢に囲まれた坂井政尚は討死。堅田はその日のうちに朝倉軍が制圧し、戦いは朝倉方の勝利に終わった。
攻めた側の事情 堅田は放置できない急所
「時刻移り候てはかなわじ」——時が経っては手遅れになると、越前勢は攻撃を急いだと伝わる。湖上の連絡路を断たれれば、比叡山の大軍は立ちゆかなくなるからである。江戸時代の史書には、朝倉方は3千の兵が陸路から、阿閉氏の7百が水路から、水陸で堅田を挟み撃ちにしたと記される。
守り手の戦果 義景の右筆まで討ち取った
守る織田方も、前波藤右衛門・堀平右衛門、そして義景の右筆(書記役)・中村杢丞ら、朝倉方の名の知られた者たちを討ち取った。一方的な敗戦ではなく、双方が多くを失う激戦だった。
政尚の最期 「一人当千の働き」と讃えられた
それでも多勢の差は覆らず、坂井政尚は浦野源八父子とともに討死した。その働きは「一人当千、高名比類なし」と讃えられている。堅田は朝倉軍の占領下に入り、湖の補給路を断つ策は失敗に終わった。
和睦の引き金——2日後、義昭が動く
堅田の敗北で、信長が湖上の補給路を断つ望みは消えた。しかしこの戦いは、志賀の陣そのものを終わらせる方向に働くことになる。
和睦の呼び水 志賀の陣、最後の実戦
戦いの2日後、将軍足利義昭が停戦の仲介に動き出し、11月30日には三井寺まで出向いた。12月13日に和議が成立し、3か月におよんだ志賀の陣は、堅田の戦いを最後の実戦として幕を閉じた。
堅田のその後 信長方の水軍へ
志賀の陣が終わると、堅田はやがて信長の支配下に入り、堅田の水軍は信長方として働くようになる。2年後には、内応した猪飼野甚介らが囲い舟を仕立てて、江北の湖上作戦に参加している。
堅田の戦いの疑問に答える
堅田衆(湖族)って何?
堅田衆は、中世の堅田で水運や漁業を握った人々のこと。守護の六角氏も完全には支配できない自治の町をつくっていた。「湖族」の名は、現地の資料館・湖族の郷資料館にも残っている。
堅田って、今のどこ?
滋賀県大津市の堅田になる。琵琶湖がいちばん狭くなる場所の西岸で、今は琵琶湖大橋が架かる。湖の南北を行き来する船はこの狭い水道を通ることになり、水運の要の町だった。
現地に何か残っている?
大津市の堅田には、湖族の郷資料館のほか、蓮如ゆかりの本福寺、湖上に浮かぶ浮御堂などが残る。内応した3人に名を連ねる「居初」は堅田の旧家の名で、居初家の庭園・天然図画亭が今も堅田にある。