城ページ / 尾張国・徳川御三家の本拠

名古屋城なごやじょう

名古屋城なごやじょうは、尾張国(名古屋市中区)の台地の北端に築かれた平城です。同じ場所には室町時代から那古野城なごやじょうがあり、今川氏、次いで織田信秀が持ち、信長が生まれた城ともいわれますが、戦国の間に廃城となりました。1610年、徳川家康とくがわ いえやすは西国・北陸の大名に命じる天下普請で新しい城を築き、九男・義直を城主として尾張徳川家の本拠としました。五層の大天守と金鯱で知られ、明治以後も保存されましたが、1945年の空襲で天守・本丸御殿を焼失。天守は1959年に再建され、本丸御殿は2018年に復元されました。特別史跡です。

1610年 徳川家康・義直 天下普請 特別史跡

要点

  • 前身は那古野城今川氏が築き、織田信秀が奪った城で、信長の生誕地とする説がある。信長が清洲へ移ったのちに廃城となった。
  • 1610年、家康が天下普請で築いた。加藤清正・福島正則ふくしま まさのり池田輝政いけだ てるまさら20家の大名に築城を命じ、石垣と天守を短期間で完成させた。
  • 目的は西国への備えと尾張の支配。関ヶ原後も大坂に豊臣家が残るなか、東海道の要に徳川の大城を置いた。
  • 尾張徳川家の本拠。家康の九男・義直が城主となり、御三家筆頭の尾張藩62万石の中心として幕末まで続いた。
  • 空襲で失われ、再建された。国宝だった天守と本丸御殿は1945年に焼失。天守は1959年に鉄筋で再建、本丸御殿は2018年に木造で復元された。
歴史

名古屋城は、どう使われてきたのか

  1. 01室町〜戦国、那古野城の時代

    今川氏の一族が那古野に城を築き、1530年代に織田信秀が奪った。信秀はここで信長を育てたとされ、信長が生まれた城とする説がある。

  2. 02信長が清洲へ移り、廃城に

    1555年に信長が清洲城を本拠にすると那古野城の役割は失われ、やがて廃城となった。

  3. 031609年、家康が築城を決める

    関ヶ原後、尾張の本拠は清洲城だったが、低地で水害が多く手狭だった。家康は那古野の台地に新城を築き、清洲から城下ごと移すことを決めた。

  4. 041610年、天下普請で築城

    加藤清正・福島正則ら西国・北陸の20家の大名が石垣工事を分担した。天守台は清正が担当したと伝わる。天守は1612年に完成した。

  5. 05清洲越し

    清洲の城下町の武家・町人・寺社がそっくり名古屋へ移された。これを「清洲越し」と呼ぶ。清洲城は廃城となった。

  6. 06尾張徳川家の時代

    1616年ごろ義直が入城し、尾張藩の政庁として幕末まで続いた。本丸御殿は将軍上洛時の宿所として使われ、藩主は二の丸に住んだ。

  7. 07明治以降、保存と焼失、再建

    明治に陸軍の管理を経て、宮内省の離宮として保存された。1930年に名古屋市へ下賜され、天守・本丸御殿は国宝となったが1945年の空襲で焼失。天守は1959年に再建、本丸御殿は2018年に復元された。

どう読むか

名古屋城を読むときの三つの視点

  • 戦国の城ではなく、戦国の終わりの城。築城は大坂の陣の直前で、豊臣家への備えと徳川の威信を示す意味があった。
  • 天下普請は大名統制の手段。西国大名に費用と人員を負担させることで、徳川は自らの資金を使わず、大名の力を削いだ。
  • 清洲から名古屋へ、町ごと動いた。城だけでなく城下町全体を移した「清洲越し」は、近世の都市づくりの大規模な例。

名古屋城は戦国の合戦の舞台にはなっていません。しかし那古野城として信長の時代に始まり、家康が戦国の終わりに築いた城として、尾張の戦国史の入口と出口にあたります。

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参考にした資料