用語ページ / 徳川一門の頂点

御三家ごさんけとは

御三家ごさんけは、徳川家康とくがわ いえやすの子である徳川義直(尾張)・徳川頼宣(紀伊)・徳川頼房(水戸)に始まる三つの家です。徳川の名字を名乗ることを許された特別な一門で、将軍家に跡継ぎがいないときには、ここから将軍を出すことになっていました。一門の少なさに苦しんだ豊臣家を見ていた家康が、「家を続けるための控え」として置いた家といえます。

尾張・紀伊・水戸 徳川の名字を許された一門 将軍家の跡継ぎの控え

要点

  • 家康の晩年の子たちが祖。九男の義直、十男の頼宣、十一男の頼房。いずれも家康が60歳前後で得た子で、江戸幕府が開かれたあとに大名として配置された。
  • 徳川の名字を名乗れる特別な家。家康の他の子の家(結城秀康ゆうき ひでやすの越前家など)は松平を名乗ったのに対し、御三家だけが徳川を名乗った。
  • 役目は将軍家の「控え」。将軍家に跡継ぎがいないとき、御三家から将軍を出す。八代将軍の吉宗は紀伊家の出身である。
  • 政治には直接関わらない。親藩として格は高いが、幕府の役職には就かなかった。幕政の実務は譜代大名が担った。
三つの家

御三家それぞれの成り立ち

尾張徳川家祖は徳川義直(家康の九男)。名古屋城を居城とし、御三家の筆頭とされた。東海道を押さえ、西国への備えでもあった。
紀伊徳川家祖は徳川頼宣(家康の十男)。和歌山城を居城とする。八代将軍吉宗、十四代将軍家茂はこの家の出身。
水戸徳川家祖は徳川頼房(家康の十一男)。水戸城を居城とし、江戸に常駐する定めだった。十五代将軍慶喜は水戸家の生まれ。
なぜ作ったのか

豊臣家と比べると、御三家の狙いが見える

  • 豊臣家は後継ぎが一人しかいなかった。秀吉には頼れる血縁が少なく、秀次事件のあとは幼い秀頼だけが残った。家の存続が一人の命にかかっていた。
  • 徳川家は「予備」を複数置いた。将軍家の血筋が絶えても、御三家のいずれかから将軍を出せる。一人に依存しない仕組みだった。
  • 実際に機能した。七代将軍家継が幼くして死去し将軍家の直系が絶えたとき、紀伊家から吉宗が将軍となった。家康の設計は100年後に効果を発揮した。

一門の設計を含む徳川家の全体像は徳川家で、対照となる豊臣家の後継ぎ問題はそちらのページで整理しています。

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参考にした資料