戦国の旧本拠ではなく、仕置後に選び直した政治都市
- 南部氏はもともと三戸を本拠としていました。
- 1591年の九戸合戦後、不来方への移転が決まりました。
- 浅野長政の助言を受けたと伝わり、秀吉の許可のもと築城されました。
- 北上川と中津川に挟まれた丘陵へ本丸・二ノ丸・三ノ丸を置きました。
- 築城と城下整備は信直から利直・重直へ長期間引き継がれました。
北上川流域へ中心を移すための新城だった
三戸は北奥の南部氏旧来の本拠でしたが、領域が南へ広がると中心から偏ります。不来方は北上川流域を南北に結び、岩手郡・志和郡を含む新領国の管理に適していました。
盛岡城は花崗岩の丘陵に曲輪を置き、東北でも大規模な石垣を築きました。城そのものだけでなく、川の付け替え、町割り、寺社・家臣・商人の集住が長い時間をかけて進みます。
築城開始年には1597年・1598年など説明差があります。重要なのは九戸合戦後に方針が定まり、複数代をかけて近世城郭と城下が完成したことです。
九戸合戦から盛岡城下完成まで
秀吉が信直の領地を認め、近世大名領の枠組みが定まります。
家中の大勢力を排除し、北奥の支配を再編しました。
浅野長政の助言を受け、三戸から移る計画を立てます。
子・利直を総奉行として石垣・曲輪の工事を進めました。
武家地・町人地・寺社を配置し、河川と道路を組み替えます。
三代重直期に入城し、盛岡藩の政庁として機能しました。
盛岡城の構造を読む四つの視点
二つの川
北上川と中津川は天然の防御である一方、洪水対策と町づくりの課題でもありました。
総石垣
東北北部で大規模な石垣を用い、豊臣政権期以後の大名権力を示しました。
長い築城
一代で完成せず、信直・利直・重直へ工事と城下整備が続きました。
領国の中央
旧来の一族拠点から離れ、南北の領地を結ぶ新しい行政中心を作りました。
九戸合戦の「戦後」を形にした城
盛岡城は戦場の勝利を記念するだけの城ではありません。南部家中の独立性を抑え、家臣を新城下へ集め、豊臣・徳川政権の大名として領国を管理する拠点でした。
津軽氏の独立後、南部領の中心を南へ移したことは、近世の盛岡藩と弘前藩が別々の地域中心を持つ構造にもつながります。
現在の石垣や縄張りは築城開始時に一度で完成したものではありません。江戸初期の改修を含む長い形成過程として見ます。
盛岡城から、東北の戦国史をたどる
参考にした資料
年代や人物関係には軍記・家伝によって異なる説明があります。このページでは、公的機関・博物館の解説と文化財調査を軸に、確定しにくい細部を断定しない形で整理しました。