人物ページ / 吉田社の神主・神道の家の当主・日記『兼見卿記』の書き手

吉田兼見よしだ かねみ

吉田兼見とは?

天文4(1535)年に京都の吉田家に生まれ、元亀元(1570)年に家督を継いだ吉田社の神主です。吉田家が唱えてきた「唯一神道」を受け継ぎながら、明智光秀や細川藤孝と親しく交わり、その日々を日記『兼見卿記かねみきょうき』に書き残しました。

本能寺の変の直後には、誠仁親王の使いとして安土の光秀を訪ねています。この年の日記は内容の違う二冊が残り、なぜ二冊あるのかは今も研究者の間で説が分かれています。

天文4(1535)年に生まれ、元亀元(1570)年、36歳で父の兼右から家督を譲られます。
日記の書き始めから明智光秀がたびたび現れ、細川藤孝とも学問や囲碁で親しく交わります。
天正10(1582)年6月7日、誠仁親王の使いとして安土城の光秀に会います。
この年の日記には、6月12日で終わる冊と、1年分を書いた冊の二つがあります。
天正18(1590)年に八神殿の再興がかない、秀吉の死後は豊国社の遷宮を主催し、慶長15(1610)年に没します。

吉田家の当主——神祇官の家と「唯一神道」

兼見は天文4(1535)年、吉田兼右かねみぎの子として生まれた。吉田家はもと卜部うらべ氏の家で、朝廷で神事を扱う神祇官の次官を務めてきた。室町時代に吉田兼倶が「唯一神道」を唱え、兼見の父兼右はその教えを全国に広めて、各地の神社や神職に許状を出した。父兼右の実の父は清原宣賢で、宣賢は兼倶の子にあたる。兼見は元亀元(1570)年、36歳のときに父から家督を譲られ、唯一神道の教えを広めることに努めた。官は侍従・神祇大副・左衛門督を経て、慶長2(1597)年には従二位に進んでいる。

二つの名前 「兼和」から「兼見」へ

はじめの名は兼和である。天正14(1586)年11月、この年に即位した後陽成天皇ごようぜいてんのうの諱いみな(本名)「和仁」の字を避けて、兼見と改めた。そのため、史料には同じ人物が兼和と兼見の二つの名で現れる。

兼見の家族 18歳下の弟、藤孝の娘を迎えた子

弟の梵舜は天文22(1553)年生まれで、兼見より18歳下にあたる。子の兼治は永禄8(1565)年に生まれ、天正11(1583)年3月28日に細川藤孝の娘「伊彌」と結婚した。兼見は文禄元(1592)年に家督を兼治へ譲っている。

光秀と藤孝——日記の書き始めから現れる友人

『兼見卿記』は元亀元(1570)年8月から書き始められる。元亀元年から天正元年までの4年間に、武士として最もよく登場するのが明智光秀である。初めて現れるのは元亀元年11月13日で、光秀が兼見の家を訪れて「石風呂」を望んだという記事だ。光秀が近江の坂本に城を築き始めると、兼見はたびたび普請の見舞いに訪れ、元亀3(1572)年12月には天守の作事を見て「驚目」と書いている。光秀からは織田信長おだ のぶながが京へ来る知らせが前もって届き、兼見は信長の出迎えに加わることができた。

光秀とのつながり 祈念を頼まれ、朝廷への窓口になる

天正4(1576)年、光秀が病に倒れると、光秀の妻から病気平癒の祈念を頼まれ、のちには妻自身の病の祈念も頼まれている。兼見の日記を詳しく読んだ研究は、兼見にとって光秀は信長への取り次ぎ役であり、光秀にとって兼見は朝廷へ近づく窓口だったと説明している。

細川藤孝とのつながり 古今伝授の問いに答え、丹後へ招かれる

天正4年10月には、細川藤孝が問うた、古今伝授のなかの『日本書紀』神代巻についての疑問に、兼見が答えている。天正6(1578)年には藤孝に招かれて勝龍寺城で囲碁を楽しんだ。天正14(1586)年には藤孝に丹後へ招かれ、宮津から智恩寺に立ち寄り、天橋立の切戸を舟で渡っている。

本能寺の変の使い——安土の光秀と銀子50枚

天正10(1582)年6月2日の早朝、兼見は本能寺が焼かれたという知らせを受けた。6日、変の際に内裏へ逃れていた誠仁親王に呼ばれ、光秀への「御使」として下るよう命じられて、手土産の緞子どんす一巻を預かる。7日、家来を連れて安土城に入り、しばらく門外で待たされたのち光秀に会った。9日には光秀が上洛して兼見の家に入り、内裏と誠仁親王に銀子500枚、五山と大徳寺に100枚ずつ、兼見に50枚を贈った。兼見はその銀子を内裏へ届けている。

山崎の戦いのあと 信孝の使いに問いただされる

13日に光秀は山崎の戦いで敗れた。翌14日、織田信孝の使いを名乗る津田越前入道が、光秀の銀子を兼見が朝廷へ取り次いだことを問いただした。兼見は誠仁親王に訴え、同じ日のうちに信孝や羽柴秀吉はしば ひでよしの奉行人に申し開きをして、ひとまず事なきを得た。2018年の論文によれば、それでも問題は片づかず、兼見は22日に松井友閑を訪ねて銀子の配り方を弁明し、施薬院全宗を通じて秀吉への取りなしを頼み続けた。秀吉のもとへ送った使いが「別儀なし」との返事を持ち帰ったのは7月3日で、身の安全を確かめるまでに少なくとも20日近くかかったという。

呼び方の違い 「勅使」か、親王の「御使」か

『国史大辞典』の記述を引くレファレンス協同データベースの回答は、兼見を「勅使」と書く。日記を読み込んだ2016年の論文は、兼見に光秀のもとへ行くよう命じたのは誠仁親王で、日記の言葉は「御使」だと紹介しつつ、論文の地の文では「勅使」とも呼んでいる。

二冊の天正十年——書き直された日記

『兼見卿記』は元亀元(1570)年から文禄元(1592)年まで(天正2・16・17年を欠く)と、慶長15(1610)年の分が伝わる。天正10年の分だけは二冊ある。一冊は正月から6月12日、山崎の戦いの前日までで終わり、もう一冊は正月から1年分を書いている。二冊を比べると、変のあとの光秀との関わりの書き方が違う。たとえば安土で光秀が「今度謀反の存分」を語ったという記事は、6月12日で終わる冊にしかない。

なぜ二冊あるのか 主な説は三つ

一つは、銀子の件などで疑いを招かないよう、光秀に関わる都合の悪い記事を書き直したとする説である。二つめは、それを進めて、兼見や朝廷が本能寺の変に深く関わっていたために急いで書き改めたとする説。三つめは、6月12日で終わる冊は下書きで、冊子の紙がたまたまそこで尽きたにすぎず、書き替えは変への関与と関係がないとする説である。2018年の論文は、書き改めたとみるのが一般的だと紹介し、三つめの説の検証の細かさを評価しながらも結論には同意しない。そのうえで、兼見が疑いを避けるため、元亀元年の分にまで及ぶ大規模な書き改めをしたと考えている。ただし、兼見が光秀と組んで変を企んだという意味ではないとも断っている。

呼び名の違い どちらを「別本」と呼ぶか

二冊の呼び方は資料によって逆になる。レファレンス協同データベースが引く『国史大辞典』は、書き改めて新しく作った1年分の冊を「別本」と呼ぶ。2016年と2018年の論文は、6月12日で終わる冊を「別本」と呼び、1年分の冊を「本記」「正本」と呼ぶ。このページでは、混乱を避けるため「6月12日で終わる冊」「1年分の冊」と書き分けた。

日記の伝わり方も一様ではない。吉田家にあった元亀元年から天正年間の原本は第二次世界大戦の際に焼失したとされ、その写しが東京大学史料編纂所に残る。慶長15年分の原本は豊国神社に、三つの別記の原本は國學院大學図書館にある。

八神殿と豊国社——秀吉の時代の神事

天正18(1590)年4月18日、兼見がかねて願い出ていた神祇官の八神殿の再興がかなった。吉田の斎場所太元宮さいじょうしょだいげんぐう(大元宮とも書く)の裏に神殿二棟を建てて神々を合わせ祀り、後陽成天皇から造営料20石が与えられた。『国史大辞典』はこれによって吉田家が名実ともに「神祇官代」の地位を得たとし、別の研究は、慶長14(1609)年以降に斎場所が神祇官代として伊勢への奉幣を送り出す場所になったと書く。家督を譲ったあとの兼見は、後陽成天皇に『日本書紀』や『中臣祓』を講義し、慶長2(1597)年8月には天皇の書いた「三社託宣」を賜っている。

豊国社 秀吉を神として祀る遷宮を主催する

慶長3(1598)年8月に秀吉が没すると、遺体は東山の阿弥陀ヶ峰あみだがみねに葬られ、翌年その麓に豊国社が建てられた。慶長4(1599)年4月18日の遷宮の前日、朝廷の使いが読み上げた宣命が兼見に渡され、豊国大明神の神号が授けられた。翌19日の正一位の位も兼見に渡されている。遷宮は吉田神道の方式で行われ、兼見と兼治の父子が主催した。

吉田家の人々 孫は社務職に、弟は神宮寺の別当に

豊国社の社務職には、兼見の孫で養子でもある萩原兼従が任じられ、後見は兼見が務めた。弟の梵舜も兄とともに豊国社の創建に関わり、その神宮寺の別当になっている。兼見が没したのは慶長15(1610)年である。

吉田兼見の疑問に答える

兼見は本能寺の変に関わっていたの?

分かっていない。天正10年の日記が書き直されたことを、兼見や朝廷が変に関わった根拠とみる説がある一方、書き替えは関与を示すものではないとする説もある。日記の一箇所だけで決められる問題ではない。

今ある吉田神社の大元宮は、兼見が建てたもの?

今回あたった資料には、兼見が建てたとする記述はない。現在の斎場所太元宮の建物は慶長6(1601)年に建てられた八角形の社殿で、国の重要文化財である。兼見の時代の建物だが、岡田莊司の論文は、淀君の寄進による創建とされると書いている。

光秀が敗れたあと、兼見は罰を受けたの?

罰を受けたとする記述は、今回あたった資料には見当たらない。ただし疑いを晴らすまでには弁明を重ねる必要があり、2018年の論文は、少なくとも20日近くかかったとみている。その後も兼見は神主として活動を続け、豊国社の遷宮では中心に立った。

吉田兼見から、次にたどる

参考にした資料