一門・政変・文化を一つの生涯でつなぐ人物
- 信長の弟として、織田一門の一角を担いました。
- 本能寺の変では信忠が二条御所(下御所)で自刃し、織田政権の中枢崩壊を長益も同じ渦中で経験します。
- 大坂夏の陣を経て、晩年は京都建仁寺に隠居しました。
- 有楽斎の名で茶の湯を深め、茶室如庵は現在国宝に指定されています。
何を担った人物か
織田一門は血縁だけで安泰だったわけではありません。信長・信忠が同時に失われた後、長益も新しい権力との距離を選び直す必要がありました。武将としての働きだけでなく、何を拠り所に次の時代を生き延びたかが重要ですが、その具体的な中身は資料によって書き方が分かれます。
有楽斎を茶の湯から読むと、安土桃山期の文化は戦争の外側にある趣味ではなかったと分かります。長益自身も、大坂夏の陣の後に隠居所とした京都建仁寺の中に、茶室如庵を構えました。茶会、道具、寺院との関係は、大名・公家・商人の人脈を結ぶ場でもありました。
二条御所、本能寺後、関ヶ原、茶室如庵を順にたどれば、一門の人びとがそれぞれの形で次の時代へ入っていった過程が見えます。
時系列
信長が公家二条家の跡地に築き、天正7(1579)年に誠仁親王へ献上した邸宅「下御所」で、信忠は本能寺の変の際に自刃しました。織田家の中枢が一日で失われ、長益も兄と甥を同時に失います。
本能寺の変の後、長益が豊臣政権とどう関わったかは、資料によって書き方が分かれます。織田一門としての立場を、新しい権力のもとで選び直す時期になりました。
関ヶ原の戦いを越えて生き延び、慶長20(1615)年の大坂夏の陣の後は、京都建仁寺を隠居所としました。
隠居所とした建仁寺の中に構えた二畳半台目の茶室「如庵」は、にじり口脇の意匠などに独自の工夫を凝らした建物です。近代に二度の移築を経て、今は愛知県犬山市にあり、昭和26(1951)年に国宝に指定されています。
読み違えないために
「逃げた男」といった後世の人物評は、変直後の混乱を単純化しがちです。信忠が最期を迎えた邸宅の呼び方にも注意が要ります。事典類では「二条城」「二条御所」「二条邸」が同じ意味で使われることがありますが、実際に信忠が自刃したのは、南北朝時代の公卿二条良基の邸宅だった「二条殿」です。信長が景観を気に入って天正5(1577)年に住まいとし、天正7年に誠仁親王へ献上した邸宅で、本能寺の変で信忠が自刃した後に焼失しました。跡地は今の京都府京都市中京区両替町通御池付近にあたります。地名の特定と、長期にわたる一門の選択とを、分けて考えます。