1526〜1573年 / 浅井氏二代・六角氏への従属・長政の父

浅井久政あざい ひさまさ

浅井久政は、戦国大名浅井氏の二代目当主で、浅井長政の父です。父・浅井亮政の跡を継いだころ、浅井氏は南近江の六角氏に押されており、久政は六角氏に従属することで家を保ちました。しかしこの方針は家臣の不満を招き、1560年ごろに子の長政へ実権を譲ることになります。隠居後も家中に影響力を持ち、1570年の信長からの離反では朝倉氏との関係を重んじる側の中心だったとされます。1573年、小谷城落城の際に自害しました。

長政の父 六角氏に従属して家を保つ 1573年 小谷城で自害

要点

  • 六角氏に従って家を守った。父の代から続く六角氏との争いに押され、久政は六角氏に従属する道を選んだ。長政の初名「賢政」は六角義賢から一字をもらったもの。
  • 家臣の不満で実権を譲った。従属路線に不満を持つ家臣たちが若い長政を擁立し、久政は1560年ごろに隠居した。強制的な隠居だったとする見方が有力。
  • 隠居後も影響力を持った。小谷城内の小丸に住み、朝倉氏との関係を重んじる立場から、信長との同盟・離反の判断に関わったとされる。
  • 小谷城で自害した。1573年、秀吉らの攻撃で小丸が落ち、久政は自害。間もなく長政も本丸で自害した。
人物

何をした人物か

久政が家督を継いだ1542年、浅井氏は父・亮政が築いた北近江の支配を保っていましたが、南近江の六角氏の圧力は強まる一方でした。久政は六角氏と戦うのではなく、従属することで家の存続を図ります。嫡男の長政に六角義賢の一字をもらって「賢政」と名乗らせ、六角氏の家臣の娘を妻に迎えさせたのは、その従属の証でした。

しかし、この方針は浅井氏の家臣たちに不満を残しました。1560年、長政が六角氏との関係を断って野良田の戦いに勝つと、家臣たちは長政を当主に立て、久政は隠居します。自らの意思ではなく、家臣団に退けられた隠居だったと考えられています。

隠居後の久政は小谷城内に住み続け、家中で一定の発言力を保ちました。1570年に長政が信長から離れて朝倉氏についた判断には、久政を中心とする朝倉重視派の意向が強く働いたとする見方があります。1573年の小谷城落城の際、久政は小丸で自害しました。48歳でした。

年表

年表で追う

  1. 011526年:誕生

    浅井亮政の子として生まれる。

  2. 021542年:家督相続

    父の死により浅井氏二代当主となる。

  3. 031540〜50年代:六角氏への従属

    六角氏に従い、長政に「賢政」と名乗らせる。

  4. 041560年ごろ:隠居

    家臣団が長政を擁立し、実権を譲る。

  5. 051570年:信長からの離反

    朝倉氏との関係を重んじる立場に立ったとされる。

  6. 061573年:自害

    小谷城落城。小丸で自害。48歳。

注意点

久政を読むときに気をつけたいこと

  • 「凡庸な当主」という評価は結果論の面がある。六角氏への従属は屈辱的に見えるが、当時の浅井氏の力では現実的な選択だったとする見方もある。長政の活躍と対比されて低く評価されやすい。
  • 隠居の経緯は史料で細部まで確かめられない。家臣団による強制的な隠居とする見方が有力だが、当時の記録は少なく、後世の軍記物の影響を受けた説明も多い。
  • 信長離反を久政の独断とするのは言いすぎ。久政が朝倉重視派の中心だったとする見方はあるが、最終的な判断は当主の長政のものであり、久政一人に責任を帰すのは公平ではない。
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参考にした資料