?〜1542年 / 浅井氏初代・小谷城の築城・長政の祖父

浅井亮政あざい すけまさ

浅井亮政は、戦国大名としての浅井氏の初代にあたる人物で、浅井長政の祖父です。北近江の守護・京極氏の家臣でしたが、1523年に京極家で起きた家督争いに乗じて北近江の国人たちをまとめ、実権を握りました。1525年ごろに小谷城を築き、以後三代約50年にわたる浅井氏の本拠としました。南近江の六角氏との争いでは越前の朝倉氏の支援を受け、この関係がのちの浅井氏の運命を左右します。

長政の祖父 1523年 京極氏の内紛で台頭 小谷城を築く

要点

  • 京極氏の家臣から出発した。浅井氏は北近江の国人で、守護の京極氏に仕える立場だった。亮政自身は分家の出身とされる。
  • 主家の内紛に乗じて実権を握った。1523年、京極氏の家督争いに際して国人たちを率い、京極高清を擁する形で北近江の主導権を得た。
  • 小谷城を築いた。1525年ごろ、小谷山に本拠を築いた。京極氏の当主を城内に住まわせ、形のうえでは主君として立て続けた。
  • 六角氏と争い、朝倉氏に頼った。南近江の六角氏に何度も攻められ、一時は小谷城を追われた。越前の朝倉氏の援軍で持ちこたえ、以後両家の結びつきが深まる。
人物

何をした人物か

北近江は室町時代、京極氏が守護を務めていました。浅井氏はその京極氏に仕える国人の一つで、亮政は本家の娘婿として浅井家を継いだ人物とされます。1523年、京極氏で父子の対立から家督争いが起きると、亮政は北近江の国人たちを率いて一方に味方し、争いの収拾を主導しました。これを機に京極氏の実権は浅井氏に移り、亮政は北近江の実質的な支配者となります。

1525年ごろ、亮政は小谷山に城を築きました。京極氏の当主を城内に迎えて形のうえでは主君として立て、自らはその「家臣」として政務を取る形をとっています。守護の権威を残したまま実権を握る、戦国初期によく見られる下剋上の形でした。

南近江の六角氏はこれを認めず、たびたび北近江に攻め込みました。亮政は小谷城を追われて越前の朝倉氏を頼ったこともあり、朝倉氏の一族・朝倉宗滴あさくら そうてきの援軍で持ちこたえています。この恩義が、孫の長政の代に朝倉氏を見捨てられない理由になったとみられます。亮政は1542年に死去し、子の久政が跡を継ぎました。

年表

年表で追う

  1. 01生年不詳

    浅井氏の分家に生まれ、本家の娘婿として家を継いだとされる。

  2. 021523年:京極氏の内紛

    国人を率いて家督争いに関わり、北近江の実権を握る。

  3. 031525年ごろ:小谷城を築く

    小谷山に本拠を定める。

  4. 041520〜30年代:六角氏との争い

    六角氏の侵攻を受け、朝倉氏の支援で持ちこたえる。

  5. 051542年:死去

    家督は久政へ。

注意点

亮政を読むときに気をつけたいこと

  • 生年や出自は確定していない。分家の出身で本家を継いだとされるが、系譜には異なる記述もある。
  • 小谷城の築城年は「ごろ」で読む。1525年前後とされるが、城が段階的に拡張されたため、どの時点を築城とするかで幅がある。
  • 「下剋上の主」という像は単純化しすぎ。亮政は京極氏を滅ぼしたわけではなく、形式上の主君として残した。守護の権威を利用しながら実権を握る、当時の国人の現実的な動き方として読みたい。
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参考にした資料