1521–1598 / 近江守護・六角承禎

六角義賢

六角義賢は、近江の観音寺城を基盤に、京都を追われた将軍を支え、三好長慶とは戦争と調停の両方を行った守護大名です。出家後の名「承禎」で知られます。浅井氏の自立、家臣団の離反、1568年の織田信長による近江侵攻で本拠を失いますが、それで活動を終えず、甲賀方面から反信長勢力の連絡と抵抗を続けました。

義賢を理解する四つの要点

京都のすぐ東を押さえた

近江は京都と東国・北国を結ぶ交通の要地です。六角氏は南近江を基盤に、将軍の入京・退避を左右できる位置にいました。

三好とは戦うだけではない

義賢は足利義輝を支えて長慶と戦う一方、1552年・1558年の和睦を仲介しました。敵対と調停を使い分ける政治家です。

家臣との合意が必要だった

六角氏と近江の在地領主は一方的な主従ではありません。観音寺騒動と六角氏式目は、当主の権力が家臣との契約に支えられたことを示します。

信長に一戦で消されたのではない

1568年に観音寺城を失っても、義賢父子は甲賀・伊賀へ移って抵抗を継続。近江の旧勢力として信長包囲網にも関わりました。

人物と勢力圏を先に整理

六角定頼。近江守護として幕政に深く関わり、将軍・足利義晴を支えた。
名前六角義賢。出家後は承禎と号し、史料では六角承禎の名も多い。
本拠南近江の観音寺城。巨大な山城と山麓の城下・市場、琵琶湖交通を結ぶ政治拠点だった。
家督父の死後に六角氏を継ぎ、のち息子・義治へ家督を譲っても実権と外交への関与を保った。
主な協力者足利義輝、畠山高政、近江の蒲生氏・進藤氏ら。ただし関係は時期により変化した。
主な対立者三好長慶、浅井長政、織田信長。いずれとも単純な一度きりの敵対関係ではない。

近江守護の継承から反信長抵抗まで

1552年
父・定頼が死去し、六角氏を継ぐ

京都を追われた足利義輝と細川晴元を近江で支える立場を引き継ぎます。同年の義輝と三好長慶の和睦にも、近江六角氏の調整が働きました。

1558年
義輝を支援し、最後は長慶と和睦させる

義輝の帰京戦を助け、三好方と戦います。戦線が膠着すると仲介へ転じ、義輝は長慶との和睦によって5年ぶりに京都へ戻りました。

1560年
野良田で浅井長政に敗れる

北近江で六角氏の影響下を離れようとする浅井長政と戦い、敗北。浅井氏の自立が進み、近江一国をまとめる構想が揺らぎます。

1561–1562年
畠山高政と三好長慶を挟撃

義賢は京都方面へ、畠山方は河内・和泉方面へ進出。久米田で三好実休を討つ成果を挙げますが、教興寺で畠山方が敗れ、長慶政権を倒し切れませんでした。

1563–1567年
観音寺騒動と六角氏式目

息子・義治が重臣の後藤賢豊父子を殺害したことから家臣が離反。父子は一時本拠を追われ、復帰後には当主と家臣が互いに守る「六角氏式目」が定められました。

1568年
信長の上洛に抵抗し、観音寺城を離れる

足利義昭を奉じた織田信長から近江通行への協力を求められますが拒否。支城が攻められると義賢・義治父子は観音寺城を退き、甲賀・伊賀方面へ移りました。

1570年代以後
旧領回復と反信長連携を続ける

近江で一揆や反信長勢力と連携し、失地回復を試みます。1573年に鯰江城を失うまで抵抗の拠点を保ち、その後も長く生きました。

六角氏は、なぜ京都政治で無視できなかったのか

地理

東国から京都へ入る道は近江を通ります。将軍が京都を追われた時も、近江は避難先と反攻の出発点になりました。

家格

六角氏は佐々木氏惣領につながる近江守護です。幕府の命令を受け、将軍を支える資格と人脈を持ちました。

軍事力

南近江の国衆・城・交通を動員し、京都東山へ兵を進められました。三好氏にとって東側からの圧力になります。

仲介力

義輝を支援しながら、戦争を終える交渉相手にもなれました。1558年の和睦は、義賢の役割をよく示します。

義賢を「三好長慶に負け続けた大名」とだけ見ると、和睦を成立させた政治力を見落とします。1561年に再び反三好へ転じるのも、気まぐれというより、京都で一勢力が優位になりすぎることを避け、近江の発言力を保とうとする行動でした。

観音寺騒動で見えた、当主と家臣の関係

1563年、息子・義治が観音寺城内で有力家臣・後藤賢豊父子を殺害すると、近江の在地領主たちは城内の屋敷を焼き、六角氏のもとを離れました。義賢父子は本拠から退去し、蒲生定秀らの仲介でようやく戻ります。守護大名だから家臣を自由に処罰できる、という関係ではなかったことが表面化しました。

1567年の六角氏式目は、当主が家臣へ一方的に命じる分国法というより、当主と在地領主が条項を守ることを互いに誓う契約に近い性格を持つと評価されています。「家臣に権力を奪われた証拠」だけではなく、破綻した信頼を規則と合意で組み直そうとした文書です。

観音寺騒動の後に信長が侵攻したため、内紛だけが六角氏没落の原因と語られがちです。しかし、浅井氏の自立、家臣の切り崩し、交通路を押さえる信長の軍事力が重なっており、一つの事件だけで説明できません。

1568年、なぜ信長に協力しなかったのか

信長は足利義昭を将軍にするため京都へ向かい、近江の義賢に道案内・協力を求めました。義賢父子はこれを拒みます。義賢には三好方との関係があり、信長の大軍を自領へ通せば、南近江の支配も京都での発言力も失う恐れがありました。

織田軍が支城を攻めると、義賢父子は巨大な観音寺城で決戦せず退去しました。これを臆病さだけで説明することはできません。すでに家臣の離反が進み、山城に籠もっても長期戦を支える領国の結束が弱まっていたからです。その後、甲賀・伊賀へ移って抵抗を続けた行動からも、城の放棄が即時降伏ではなかったことが分かります。

誤解しやすい点と史料上の注意

  • 「承禎」は出家後の名で、六角義賢と六角承禎は同一人物。
  • 義賢と三好長慶は常に敵ではなく、将軍義輝の帰京をめぐって戦いと和睦を繰り返した。
  • 野良田の敗戦だけで六角氏が直ちに没落したわけではなく、その後も京都へ出兵できる力を持った。
  • 観音寺騒動の直接の発端は息子・義治による後藤賢豊父子の殺害で、義賢一人の判断と断定できない。
  • 六角氏式目は当主の命令集というより、当主と在地領主の双務的な誓約として読む必要がある。
  • 1568年に観音寺城を失っても義賢の活動は終わらず、甲賀方面から反信長抵抗を続けた。

参考にした資料