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信長の上洛

1568年、織田信長は足利義昭を奉じて京都へ進出しました。義昭を室町幕府15代将軍に立てることで、信長は京都の政治に関わる足場を得ます。上洛は、信長と義昭が互いに必要とした共同の政治行動でした。

1568年足利義昭京都室町幕府15代将軍

上洛の前に、何が起きていたか

兄・足利義輝を失った義昭は、将軍として京都へ戻るための軍事的な支えを必要としていました。一方の信長は、前年に美濃を得て岐阜を本拠にし、京都へ軍を進める条件を整えます。

義昭の将軍家としての権威と、信長の軍事力・領国基盤が結びついたことで、上洛は実現しました。信長だけが京都を目指したのではなく、義昭が将軍になるための行動でもあります。

1568年、信長の上洛の流れ

  1. 01義昭が信長と結ぶ

    朝倉義景を頼っていた義昭は、上洛を実現する有力な協力者として信長と結びつきます。

  2. 029月7日、岐阜を出て近江へ進軍する

    信長は義昭を奉じて進み、近江で抵抗した六角氏の拠点を攻めます。六角氏が退いたことで、京都へ向かう道が開きました。

  3. 039月26日、京都の東寺へ入る

    信長軍は京都へ入り、勝龍寺城や摂津方面で三好方を退けます。入京だけでなく、京都周辺の抵抗を抑える軍事行動が続きました。

  4. 0410月18日、義昭が将軍となる

    信長の軍事力を背景に、義昭は室町幕府15代将軍へ就任します。京都に将軍政権が再建されました。

  5. 05京都・畿内の統治を整える

    義昭に従ってきた幕臣と信長の家臣が、京都の治安・訴訟・所領問題に関わります。上洛は新しい共同統治の始まりでした。

義昭政権を動かした四つの役割

足利義昭征夷大将軍として任官や命令を行い、諸大名・寺社・公家と結びつく将軍家の権威を担いました。
織田信長上洛軍を率い、京都周辺の三好方や六角氏を退ける軍事力を提供しました。義昭を支える最大の大名ですが、将軍そのものではありません。
義昭側の幕臣細川藤孝や明智光秀らが、義昭と諸勢力の連絡や京都政治に関わります。光秀はこの時点で義昭と信長を結ぶ位置にいました。
信長側の京都担当村井貞勝や木下藤吉郎らが、京都・畿内の実務や軍事に関わります。信長は本拠を岐阜に置いたまま、担当者を通じて京都へ影響力を及ぼしました。

上洛で何が変わったか

「信長が京都を取った」だけで見ない

上洛を、信長が京都を支配した瞬間としてだけ捉えると、義昭の役割が消えてしまいます。義昭の将軍就任を実現するために信長が軍を動かし、その後に京都の政治を誰が主導するかという問題が生まれました。

読み解くポイント

  • 義昭を奉じた意味を見る

    将軍家の権威をともなうことで、信長の上洛は単なる領土拡大とは違う政治的な行動になります。

  • 岐阜を得た直後だったことを見る

    美濃攻略で得た岐阜がなければ、信長は京都へ向かう基盤を持てませんでした。

  • 追放までの関係を見る

    1568年の協力は、1573年の義昭追放へ続きます。上洛は長い関係の出発点です。

1568年は、幕府の破壊ではなく再建だった

後の1573年に信長が義昭を京都から追放した結果を先に知っていると、上洛の時点から二人が敵だったように見えます。しかし1568年の目的は、義昭を将軍に就けて京都の政治秩序を立て直すことでした。信長も将軍の権威を利用し、義昭も信長の軍事力を必要としています。

やがて命令権、諸大名との外交、畿内支配をめぐって両者の利害はずれます。その対立は最初から決まっていたのではなく、共同政権を運営する過程で深まったものです。上洛と追放の間の約五年を見ると、室町幕府の終わりが一日の事件ではなかったことが分かります。

参考にした資料

1568年の上洛と義昭の将軍就任を、公開されている自治体・博物館の資料を参照して独自に整理しています。進軍の経路や京都での政治的な位置づけには、史料と研究による解釈の違いがあります。

信長の上洛から、戦国を広げる