青山忠成とは?
徳川家康に仕えて関東総奉行を務め、天正18年(1590)に与えられた屋敷地が、今の東京都港区の北青山・南青山という地名の起源とされる人物です。子孫のうち幸成の系統は、寛永12年(1635)から尼崎藩(今の兵庫県尼崎市)の藩主を務めました。
関東総奉行——家康のもとで務めた役職と、そこから分かれた家
青山忠成は徳川家康に仕えた家臣で、家康のもとで関東総奉行を務めた。江戸時代の青山家は、徳川家の譜代の有力大名家として複数の家に分かれるが、資料がたどるのは忠成を祖とする青山家の系統である。関東総奉行に任じられた年や在任の期間、この役職が受け持った仕事の範囲については、公的資料には記述がない。
残っている一文 役職の名と、人の名だけが伝わる
忠成について公的な資料に現れるのは、「徳川家康のもと関東総奉行を務めた青山忠成」という書き方である。合戦での働きや、家康のもとでの日々の仕事ぶりを伝える記述は添えられていない。伝わっているのは、忠成を祖として、江戸時代の青山家諸家が分かれていったことである。
青山家の祖 一つの家ではなく、諸家のもと
江戸時代には「青山」を名乗る徳川家譜代の大名家がいくつも並ぶ。その系統をたどると忠成に行き着くため、資料では「青山忠成を祖とする青山家」という言い方をとる。忠成が受けた屋敷地も、のちには諸家の屋敷が集まる一帯として説明される。
天正18年の屋敷地——与えられた土地が、家の名で呼ばれた
天正18年(1590)、忠成は土地を与えられた。この土地は、今の東京都港区の北青山・南青山にあたる一帯である。港区の記録は、青山の地名について、このとき土地を与えられた徳川家重臣の青山忠成から続く「青山家」の名が起源とされている、という書き方をとる。土地を与えた側や、その土地がどれだけの広さだったかは書き添えられていない。
屋敷が並んだ一帯 復原図に広い面積が残る
江戸の町を復原した図では、今の青山にあたるエリアに、忠俊の系統をはじめとする青山家の諸家の屋敷が建ち並び、広大な面積を占めていたことが確認できる。忠成一人の屋敷というより、青山家の屋敷が集まる区画として、江戸の地図の上に姿を現す。
街道が区切った 分与の境目が、今の町境に残る
青山家の屋敷地から分与された土地のうち、厚木街道(大山道。現在の青山通り、国道246号線)以北が、現在の北青山にあたる。屋敷地を分けた線引きが、そのまま今の町の区切りとして残っている。
江戸の町名——“青山”を冠する町が、屋敷地から起こった
江戸時代に入ると、青山家の敷地の一部が町になり、青山浅河町、青山御手大工町、青山久保町など、“青山”を冠する町名がつけられた。武家の屋敷地から生まれた町が、その屋敷の主の家の名を冠して呼ばれた形である。
江戸以前 “青山”という名の記録がない
青山家の敷地から町ができる以前に、この一帯を“青山”と呼んだ記録はなく、周辺の集落の名にも“青山”は確認できない。地名としての“青山”は、忠成が土地を与えられ、そこに屋敷が構えられて以降の言葉として現れる。
町名から地域名へ 一つずつの町の名として始まった
江戸時代の“青山”は、青山浅河町、青山久保町といった個々の町の名前の一部として使われた。広い一帯をまとめて指す言い方として“青山”が本格的に認識されはじめたのは明治以降であるとされ、忠成の時代に広域の地名がすぐ定着したわけではない。
青山家の系統——丹波篠山と、尼崎から美濃郡上へ
忠成を祖とする青山家は、江戸時代のうちに複数の大名家に分かれた。嫡男の忠俊の系統は、近世後半に丹波篠山藩主となる青山氏である。忠俊の弟・幸成の系統は、寛永12年(1635)から宝永8年(1711)まで尼崎藩主を務め、のちに美濃郡上藩主となった。
忠俊の系統 丹波篠山藩へ
嫡男の忠俊から続く系統は、丹波篠山藩(今の兵庫県丹波篠山市)となる系統である。江戸の青山にあった屋敷のうち、復原図で確認できる広い区画も、忠俊の系統をはじめとする青山家諸家の屋敷である。
幸成の系統 尼崎藩76年、そして美濃郡上藩へ
忠俊の弟・幸成から続く系統は、寛永12年(1635)から宝永8年(1711)までの76年間、尼崎藩(今の兵庫県尼崎市)の藩主を務めた。尼崎を離れたのちは美濃郡上藩(今の岐阜県郡上市)の藩主となる。
明治以降の青山——小さな町がまとまり、北と南に分かれた
幕末までの“青山”は、屋敷地と、そこから起こった小さな町の名だった。明治に入ると町の合併と行政区画の整理が続き、その過程で“青山”が広い地域を指す地名として使われるようになる。
明治5年(1872) 青山北町と青山南町にまとめられた
明治に入ると、江戸時代に起こった小さな町が合併をくり返した。明治5年(1872)、青山権田原町・青山高樹町・青山六軒町・青山三筋町の4町を除く残りの町が、青山北町と青山南町に整理された。
明治11年(1878) 赤坂区に入り、“赤坂”を冠した
明治11年(1878)の郡区町村編制法によって、赤坂・青山地区は赤坂区となった。北町・南町はともに一部を除いて赤坂区に所属した。赤坂区はのちに港区となり、その後は町名の頭に“赤坂”を冠して呼ばれた。
昭和41年(1966) 北青山・南青山ができた
昭和41年(1966)の住居表示に関する法律の施行で、赤坂青山北町を中心に、赤坂青山六軒町・赤坂青山三筋町、原宿などの一部をあわせて「北青山」となり、赤坂青山南町を中心に、赤坂新坂町・赤坂高樹町など周辺の一部をあわせて「南青山」となった。
尼崎の「東青山線」——藩主の名が、道路の名に選ばれた
兵庫県尼崎市の築地町には、「東青山線」「西青山線」という名の市道がある。築地町は、近世初頭の尼崎藩青山氏の時代に、尼崎城の南の島状の土地に新たに築かれた町である。町の成り立ちそのものが、幸成の系統が尼崎藩主だった時期と重なっている。
平成7年(1995) 液状化からの復興で、市道が引き直された
平成7年(1995)の阪神・淡路大震災により、築地町では液状化がおこった。その後、復興都市計画と土地区画整理が実施され、この際に市道が新たに整備された。
名前の選び方 東京の青山通りと、同じ「青山」
市道の名称には、歴史的かつ発信力のある名称という考え方から、町の建設当時の藩主だった青山氏にちなんだ名が選ばれた。東京の青山通りと同じ「青山」を採用し、「東青山線」「西青山線」と命名された。
青山忠成の疑問に答える
なぜこの一帯が「青山」と呼ばれるようになった?
資料によって書き方が分かれる。港区は、青山の地名について、天正18年(1590)に土地を与えられた徳川家重臣の青山忠成から続く「青山家」の名が起源とされている、と説明する。別の資料では、東京の「青山」という地名は、このエリアにかつて徳川家譜代の有力大名家である青山家諸家の屋敷が集まっていたことに由来する、と説明する。忠成という一人の家臣に重心を置くか、集まった諸家の屋敷に重心を置くかで、説明の形が変わる。
忠成がいつ生まれ、いつ亡くなったかは分かる?
生没年について、公的資料には記述がない。
青山通りという道路の名は、忠成と関係がある?
青山通り(国道246号線)は、江戸時代の厚木街道(大山道)にあたる。忠成個人と道路の名を直接結びつける記述は、公的資料にはない。
南青山にある青山霊園は、青山家と関係がある?
青山霊園は、明治5年(1872)、日本で初めての神道用の公営墓地として、美濃郡上藩青山家の下屋敷(大名の上屋敷とは別の屋敷)跡に開設された。面積は約26万平方メートルで、現在は東京都が管理運営している。
参考にした資料
- 東京都港区「港区の地名の歴史(赤坂地区)」(天正18年の屋敷地拝領と青山の地名の起源・江戸期に起こった“青山”を冠する町名・江戸以前に記録がないこと・広域地名化は明治以降とされること・厚木街道以北が北青山になった経緯・明治5年の町の整理・明治11年の赤坂区・昭和41年の北青山と南青山の成立・青山霊園の由来と現況)
- 尼崎市立歴史博物館 地域研究史料室“あまがさきアーカイブズ”「尼崎市築地町を通る『東青山線』『西青山線』という道路名称の由来」(家康のもとで関東総奉行を務めたこと・忠成を祖とする青山家の諸家・忠俊の系統と丹波篠山藩・幸成の系統と尼崎藩1635〜1711年および美濃郡上藩・青山の地名は諸家の屋敷が集まったことに由来するという説明・復原図で確認できる屋敷の広がり・築地町の成り立ちと震災復興での市道命名)