要点
- 関東管領の家に生まれた。山内上杉氏は室町時代に関東管領を世襲した名門で、上野の平井城を本拠としていた。憲政は1531年ごろに家督を継いだ。
- 河越合戦で大敗した。1546年、扇谷上杉氏・古河公方と連合して北条氏の河越城を囲んだが、北条氏康の夜襲で大敗。関東での山内上杉氏の力は失われた。
- 平井城を追われ、越後へ。北条氏の攻勢で上野の国衆も離反し、1552年に平井城を捨てて越後の長尾景虎を頼った。
- 景虎に名跡を譲った。1561年、景虎の小田原攻めののち、鎌倉で関東管領職と上杉の名跡を正式に譲った。景虎は上杉政虎と名乗る。
- 御館の乱で命を落とした。謙信の死後、養子の景虎と景勝の争いで景虎を支持。1579年、和睦のため景虎の子を連れて景勝のもとへ向かう途中で殺された。
何をした人物か
憲政は山内上杉氏の当主・憲房の子として生まれ、幼くして家督を継ぎました。山内上杉氏は室町時代を通じて関東管領を世襲し、関東の武士を統括する立場にありましたが、憲政の時代にはすでに古河公方との対立や扇谷上杉氏との争いで力を弱めていました。そこへ相模から北条氏が関東へ伸びてきます。
1546年、憲政は扇谷上杉氏・古河公方と結んで北条方の河越城を大軍で囲みましたが、北条氏康の夜襲で大敗しました。この河越合戦で扇谷上杉氏は滅び、山内上杉氏も上野の国衆に離反されます。1552年、北条氏に平井城を攻められた憲政は越後へ逃れ、守護代の長尾景虎を頼りました。
景虎は憲政を迎え、関東管領の大義名分のもとに関東へ出兵します。1561年、景虎が小田原城を囲んだのち、憲政は鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領職と上杉の名跡を景虎に譲りました。景虎は上杉政虎と名乗り、ここに謙信の上杉家が生まれます。憲政はその後、越後の御館で隠居として暮らしました。1578年に謙信が急死すると、憲政は北条氏から来た養子の景虎を支持しましたが、翌1579年、和睦のため景虎の子を連れて景勝のもとへ向かう途中で殺害されました。
年表で追う
- 011523年:誕生
山内上杉憲房の子として生まれる。
- 021531年ごろ:家督相続
幼くして山内上杉氏を継ぎ、関東管領となる。
- 031546年:河越合戦
北条氏康に大敗。関東での力を失う。
- 041552年:越後へ
平井城を追われ、長尾景虎を頼る。
- 051561年:名跡を譲る
鎌倉で景虎に関東管領職と上杉の名跡を譲る。
- 061579年:死去
御館の乱のさなか、和睦交渉の途中で殺される。
憲政を読むときに気をつけたいこと
- 河越合戦の経過には諸説ある。「夜襲で8万の連合軍を破った」とする数字は後世の軍記物によるもので、兵力や戦闘の細部は確かめられていない。
- 名跡譲渡の時期と形式には議論がある。1561年の鶴岡八幡宮での儀式が有名だが、それ以前から段階的に進んでいたとする見方もある。
- 憲政の死の経緯は史料で確かめにくい。景勝方に殺されたとされるが、誰の指示によるものかなど細部は分かっていない。