和泉の城を、紀州への備えとして読む
何を担った人物か
岸和田城は紀伊(紀州)に対する要所でした。信張が入城する前には、永禄4年(1561)に城主の十河一存が急死し、和泉の支配が揺らいだことをきっかけに、翌年の久米田の戦いで三好実休が討ち死にするなど、畿内南部の争いの舞台になった城でもあります。信張が蜂屋頼隆とともに入ったのは、こうした紀伊方面をにらむ城の系譜の上のことでした。
信張・頼隆の後、岸和田城は羽柴秀吉の家臣・中村一氏が任されました。天正11年(1583)に一氏は岸和田城主となり、天正12年(1584)には雑賀・根来のおよそ3万の大軍が城に攻め寄せましたが、地元の武士を集めたおよそ8000の兵で守り切ったと伝わります(兵の数には諸説あります)。翌年には秀吉の本隊が入城し、太田城を水攻めにするなど紀伊国への攻撃を進め、紀州攻めを成し遂げました。
津田信澄は近江高島の大溝城主で、明智光秀の娘婿にあたります。信長の甥で、父・織田信行(信勝)の死後は柴田勝家のもとで育てられ、天正2年(1574)に磯野員昌の養子となり、天正6年(1578)に大溝城を築いて高島一郡を治めました。天正10年(1582)には織田信孝が率いる四国遠征軍の副将として摂津住吉に着陣しましたが、その最中に本能寺の変が起こり、光秀との縁を疑われて大坂城千貫櫓で自害しています。信張は岸和田に関わる家臣、信澄は近江高島に関わる家臣として、活動地域も生涯も別に読む必要があります。
時系列
蜂屋頼隆とともに、紀伊に対する要所だった岸和田城に入りました。
信張・頼隆の後、羽柴秀吉の家臣・中村一氏が岸和田城主となりました。
雑賀・根来のおよそ3万の大軍が攻め寄せましたが、一氏はおよそ8000の兵で城を守り切ったと伝わります。
秀吉の本隊が入城し、太田城の水攻めなどを経て紀伊国の攻略を終えました。
読み違えないために
信張と信澄は同じ津田氏を名乗りますが別人です。信張は岸和田城に入った家臣、信澄は近江大溝城主で光秀の娘婿という、活動地域も生涯も異なる人物です。四国遠征軍や本能寺の変との関わりが記録に残るのは信澄で、信張についてこれらを裏づける記録は今のところ確認できません。名前が似ているため、読むときは岸和田(信張)と近江高島(信澄)という場所の違いで区別すると分かりやすくなります。