人物ページ / 信長・信行の母、家督争いをつなぐ存在

土田御前つちだごぜん

土田御前は、織田信秀の妻で、信長・信行の母として知られる人物です。「つちだごぜん」とする資料がある一方、「どたごぜん」とする表記もあり、読みは一つに確定していません。
1556年の稲生の戦いの後、対立した兄弟の間を取り持ったと伝えられます。記録が多い人物ではありませんが、土田御前を通すと、信長の尾張統一に家族と家臣団の関係が深く重なっていたことが見えてきます。

織田信秀の妻織田信長の母織田信行の母稲生の戦い
このページを読む順番

土田御前を最初にどう覚える?

信秀の妻

土田御前は、尾張で勢力を伸ばした織田信秀の妻として知られます。信秀の死後、家の中で起きる対立を考えるうえで重要な位置にいます。

信長と信行の母

信長と信行の母として語られることで、稲生の戦いは単なる家臣同士の合戦ではなく、同じ家の兄弟が争う出来事だったと分かります。

取りなしをした人物

稲生の戦いで信長が勝った後、土田御前が信行方の赦免を願ったと伝えられます。家中の分裂をすぐに固定しない動きでした。

史料が限られる女性

生年・没年、出自、日常の行動には不明な点が多くあります。後世の物語で広まった人物像と、同時代の記録を同一視しないことが大切です。

お市の母とされることについて

土田御前は、お市の方の母とする説が広く知られています。その場合、お市は信長・信行と同母の妹になります。

ただし、お市の生母を同時代の確実な史料だけで特定することは難しく、異説もあります。「土田御前の娘とする説が通説の一つだが、お市の生母は未詳」と扱うのが妥当です。お市の方を読むときは、確実な関係である信長の妹という位置から入り、生母については断定しないのが安全です。

お市の方のページで、生母についての注記を見る

信秀の死後、母の立場はどう変わったか

信秀が生きていた時期、土田御前は織田家の当主の妻でした。しかし信秀の死後、信長が家督を継いでも、織田家がすぐ一つにまとまったわけではありません。弟の信行を支持する有力家臣が現れ、家中の争いは武力衝突へ進みます。

このとき土田御前は、どちらか一方の武将というより、同じ家に属する二人の息子と家臣団の間にいた存在です。彼女の役割を「信長を嫌い、信行だけを愛した」といった後世の単純な物語にせず、家が壊れないように働きかけた人物として見るほうが、稲生の戦いの後の動きが理解しやすくなります。

織田信秀。尾張南部に基盤を広げ、信長・信行が受け継ぐ家と家臣団を残しました。
長男織田信長。信秀の死後に家督を継ぎ、清洲を本拠に主導権を固めます。
織田信行。柴田勝家・林秀貞らの支持を受け、信長と家督を争います。
土田御前稲生の戦いの後、信行方の赦免に関わったと伝えられます。

稲生の戦いで、土田御前は何をしたのか

1556年
信長と信行が稲生で戦う

信行を支持する柴田勝家・林秀貞らと、信長方が衝突します。信長が勝ち、信行方は末森城などへ退きました。

戦後
赦免を願う

土田御前は、信行や信行方の家臣を赦すよう信長へ取りなしたと伝えられます。信長は信行・柴田勝家・林秀貞らをいったん赦します。

その後
対立は完全には終わらない

赦免は家中を一度落ち着かせますが、信長と信行の問題を解決したわけではありません。1558年に両者は再び決裂します。

土田御前の取りなしは、戦いの勝敗を覆すためのものではありません。 信長の勝利を前提に、家中の有力者まで一度に失わないようにする動きとして見ると、なぜ信長が信行方を赦したのかが分かります。

土田御前を通して見える、尾張統一の内側

家族の争いと家臣団の争いが重なる

信長と信行は兄弟ですが、背後には柴田勝家や林秀貞らの有力家臣がいました。家督争いは家族だけの問題ではありません。

赦免は再編の始まり

信長は一度敗れた側を赦し、柴田勝家や林秀貞を後に家臣として使います。土田御前の取りなしは、この再編の入口になります。

「母の愛憎」だけで読まない

後世の作品では信長・信行への感情が強調されがちです。しかし、同時代の行動として確かめやすいのは、家中の対立に関わり赦免を願った点です。

分かること・分からないことを分ける

比較的押さえやすいこと信秀の妻、信長・信行の母として知られ、稲生の戦い後の赦免に関わったと伝えられることです。
慎重に扱うこと出自や生年・没年、子どもたちとの日常的な関係です。後世の系図や伝承に基づく部分が多くあります。
物語として広まった像信長より信行を偏愛したという描写などです。作品ごとの解釈と、史料で確認できる行動は分けて考えます。
このページの読み方土田御前を、信長を評価するための脇役ではなく、家中の分裂を内側から見る入口として置きます。

ここだけ覚える

  • 土田御前は、織田信秀の妻、信長・信行の母として知られる。
  • 1556年の稲生の戦いの後、信行方の赦免を信長へ願ったと伝えられる。
  • 彼女を通すと、信長の尾張統一が家族・家臣団の両方を含む過程だったと分かる。
  • 出自や人物像には後世の伝承も多く、確実な史料と分けて読む必要がある。

土田御前から、どこへ進む?

参考にした資料

土田御前の出自・生没年・子どもたちへの感情は、同時代の確実な記録が限られます。お市の生母についても断定できないため、本文では通説と史料上の不確実さを分けて扱いました。