人物ページ / 信秀以来の家臣、信行方から信長の政権へ

林秀貞

林秀貞は、織田信秀の代から織田家に仕え、信長の若い時期には弟・信行を支持した家臣です。
1556年の稲生の戦いの後に信長へ戻り、長く政権を支えた一方、1580年には突然追放されます。秀貞を追うと、信長の家臣団が最初から一枚岩ではなかったことが見えてきます。

織田家の譜代家臣織田信行稲生の戦い1580年追放
このページを読む順番

秀貞を最初にどう覚える?

信秀以来の家臣

秀貞は、信長の父・信秀の代から織田家に仕えた譜代の家臣として知られます。信長の家臣団には、父の時代から続く有力者がいました。

信行を支持した有力者

信秀の死後、秀貞は柴田勝家らとともに信行方に立ちます。これは信長の家督が家中で当然視されていなかったことを示します。

赦されて重臣へ戻る

稲生の戦いの後、秀貞は信長に赦され、織田家の中枢で活動を続けます。対立した家臣も取り込む信長の家臣団づくりが見えます。

晩年に追放される

1580年、秀貞は佐久間信盛・安藤守就らとともに所領を没収され、追放されました。長年の重臣でも立場が安定し続けたわけではありません。

なぜ信行方に立ったのか

信長が家督を継いだころの織田家では、父・信秀が残した家臣団の中にも、それぞれの判断と利害がありました。秀貞は、弟・林通具や柴田勝家らとともに信行を支持し、1556年の稲生の戦いでは信長と対立する側に立ちます。

これを「秀貞が最初から信長の敵だった」と見るのは正確ではありません。秀貞は織田家の譜代家臣であり、信行の支持は、信秀の死後に誰が家を率いるべきかという家中の選択でもありました。信行方の敗北後に秀貞が信長のもとへ戻ることは、家臣団の再編でもあります。

父・信秀の時代秀貞は織田家の譜代家臣として活動します。信長の家臣団には、父の代から続く有力者が多くいました。
信行方秀貞は柴田勝家らとともに信行を支持し、信長と対立します。
稲生の戦い1556年、信長が勝利します。弟の林通具は戦死したと伝えられます。
赦免後秀貞は信長のもとで再び活動し、織田政権の実務を担う重臣の一人になります。

稲生の戦いの後、何が変わったか

1556年
信行方として稲生で戦う

信行を支持する家臣団の一人として、秀貞は信長に対抗します。家中の対立は武力衝突になりました。

戦後
信長に赦される

信長は信行方を完全に排除せず、秀貞や柴田勝家らを家臣団に戻します。必要な人材を再び使う判断でした。

1568年以後
上洛後の政権で活動する

信長の京都進出後も、秀貞は織田政権の有力家臣として活動します。尾張の内紛を知る古参として、政務にも関わりました。

1580年
所領を失い、追放される

秀貞は信長から追放されます。『信長公記』には過去の信行支持に触れる記述がありますが、追放の事情を一つの理由だけで断定しないことが大切です。

秀貞が見せる、信長の家臣団の特徴

最初から忠臣だったわけではない

秀貞は信行方に立ちました。信長の有力家臣を「最初から信長だけに忠実だった人々」とまとめないための重要な例です。

対立後にも役割を持つ

敗れた後に赦され、秀貞は長く織田家で働きます。家臣団は合戦ごとに全員を入れ替えるのではなく、再配置されました。

長年の功績でも安泰ではない

1580年の追放は、信長政権の末期に家臣団が大きく動いたことを示します。古参であることだけでは地位を守れませんでした。

林秀貞は、信長の「出発点」と「政権の末期」をつなぐ人物です。 信行との内戦から、上洛後の政権、そして追放までを一人でたどると、織田家が小さな家中から全国的な政権へ変わる過程が見えます。

ここだけ覚える

  • 林秀貞は、織田信秀以来の譜代家臣として知られる。
  • 信秀の死後は信行を支持し、1556年の稲生の戦いで信長と対立した。
  • 戦後に赦され、信長のもとで長く活動した。
  • 1580年に追放され、信長の家臣団が固定的ではなかったことを示す人物になった。

林秀貞から、どこへ進む?

参考にした資料

秀貞の通称・諱や追放の事情には、史料・研究によって扱いの差があります。このページでは、信行支持、戦後の復帰、1580年の追放という大きな流れを中心に整理しました。