大久保忠隣は何を担ったか
- 大久保忠世の子として小田原を継ぎ、家康・秀忠に仕えた。
- 1594年から1614年まで小田原城主を務めた。
- 幕府初期の譜代重臣として政務に関わった。
- 1614年に改易され、晩年は佐和山付近で過ごしたとされる。
生涯を通して見る
忠隣は、1590年に小田原城へ入った大久保忠世の子です。北条氏の旧本拠である小田原は、東海道と相模湾を押さえる大きな城下でした。父からその地位を受け継ぐことは、武功への褒賞というより、家康が旧北条領を譜代で固める人事の一部でした。
家康が将軍となり、秀忠へ政権を渡していく時期、忠隣は譜代の有力者として政務に関わります。この時代の幕府は、豊臣家、外様大名、朝廷、寺社、江戸と地方の城を調整しながら、全国の秩序を作り始めた段階でした。忠隣の存在は、家康を支えた古参の家が、そのまま政権の中心になったことを示します。
1614年、忠隣は改易されます。理由をめぐる説明には、政争、縁者との関係、家康・秀忠の方針など複数の見方があります。単純な失敗物語にせず、有力譜代であっても将軍家の権力が強まるなかで位置を失い得た、と読むことが大切です。小田原は一時、幕府が城番を置く番城となりました。
年表で追う
大久保家が旧北条氏の本城を預かる。
忠世の死去後、小田原を継ぐ。
家康が将軍となり、忠隣は譜代重臣として仕える。
小田原大久保家は領地を失い、城は番城となる。
近江佐和山付近で没したとされる。
この人物を読む四つの視点
小田原の意味
北条氏の本城を譜代へ任せることは、関東支配の要だった。
家康から秀忠へ
父子二代の政権移行で、重臣の立場も変わった。
改易の難しさ
処分理由を一つの陰謀や失策へ決めつけない。
番城
大名を置かず幕府が城番を交代させる統治の形を知る。
読み違えないために
忠隣の改易は有名ですが、理由の細部は史料や後世の叙述で異なります。「家康に嫌われた」など一因だけで説明せず、幕府初期の政権再編として扱います。
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参考にした資料
自治体・博物館等の公開資料を参照し、本文は初学者向けに独自に整理しています。