要点
- 清和源氏の名族だった。村上氏は平安末から千曲川ぞいの村上郷に根を張った清和源氏の一族で、南北朝時代に坂木(坂城)へ拠点を移し、戦国期には東北信一帯をまとめる存在になっていた。
- 上田原で、信玄に初めての大敗を与えた。1548年、攻め込んできた武田晴信を上田原で迎え撃ち、武田の宿老・板垣信方や甘利虎泰らが討死する大敗を負わせたと伝わる。連戦連勝だった若き晴信の、最初の挫折だった。
- 砥石崩れで、二度目の勝利。1550年、義清の支城・戸石城を攻めた武田軍は攻めあぐね、退却時に追撃を受けて大損害を出した。「砥石崩れ」と呼ばれる武田の歴史的敗戦で、義清の武名は頂点に達する。
- 負けたのは戦ではなく、調略だった。翌1551年、武田方の真田幸隆が戸石城を調略であっけなく落とす。支城網を切り崩された義清は支えを失い、1553年、葛尾城を自落させて越後へ逃れた。
- 亡命が川中島を生んだ。義清の救援要請に応えた謙信が信濃へ出兵し、信玄と五度にわたって対陣する川中島の合戦が始まった。義清は坂城へ戻ることなく、上杉家のもと越後で生涯を終えたと考えられている。
義清の生涯を追う
- 011501年、村上家に生まれる
東北信の名族の当主として、佐久・小県方面へ勢力を広げていく。1541年の海野平の戦いでは、武田・諏訪と組んで小県の海野一族を破った。このとき郷里を追われた中に、のちに因縁の相手となる真田幸隆がいた。
- 021548年、上田原の戦い
信濃を北上する武田晴信と上田原で激突。板垣信方・甘利虎泰ら武田の重臣が討死し、晴信自身も傷を負ったと伝わる大勝だった。
- 031550年、砥石崩れ
武田軍が戸石城を大軍で攻めるが落とせず、退却時に義清の追撃で大損害。武田の数少ない歴史的大敗として「砥石崩れ」の名が残る。
- 041551年、戸石城が調略で落ちる
力攻めで落ちなかった城を、真田幸隆が調略でわずかな期間に落とした。10年前に村上方が追った男が、村上の支城網を内側から崩した形になった。
- 051553年、葛尾城を自落させ越後へ
支えを失った義清は本拠の葛尾城を自ら放棄し、上杉謙信を頼って越後へ逃れた。この救援要請に応えた謙信の信濃出兵が、川中島の合戦の始まりになる。
- 06晩年、越後にて
上杉家のもとで川中島の戦いにも加わり、坂城へ復帰することのないまま、越後で生涯を終えたと考えられている(1573年ごろ没とされる)。子の国清(山浦景国)は上杉家臣として続いた。
義清を読むときに気をつけたいこと
語られ方 「かませ犬」ではない
義清は武田・上杉の物語の脇役として、「信玄に領地を奪われた気の毒な武将」と紹介されがちだが、実際には信玄に野戦と攻城戦で二度も土をつけた当代屈指の戦上手。信玄が信濃平定に10年以上を要した最大の理由が義清であり、武田軍の戦い方(力攻めから調略重視へ)を変えさせた相手でもある。
史料と現地 確かめられること
葛尾城跡は長野県の史跡で、坂城町が義清の事績とともに解説している。上田原の古戦場、戸石(砥石)城跡も現地に残る。一方、上田原・砥石崩れの戦闘の細部は軍記(甲陽軍鑑など)に拠る部分が多く、討死した武将の顔ぶれや損害の数字は幅をもって読む必要がある。
義清の生涯から、何が見えるのか
- 川中島の「なぜ」に顔を与える人物。信玄と謙信はなぜ12年も川中島で対陣したのか——答えは「義清の失地」をめぐる争いだから。英雄二人の物語の間に義清を置くと、川中島は領土と面子の生々しい戦いとして見えてくる。
- 戦に勝って、戦争に負けた。義清は野戦で勝ち続けたのに、調略で支城網を崩されて本拠を失った。個々の合戦の強さと、外交・調略まで含めた総合力の差。戦国の勝敗の本質を、これほど分かりやすく示す例は少ない。
- 真田の物語の「最初の敵」でもある。幸隆は義清に郷里を追われ、義清の城を調略で落として復活した。上田を舞台にした真田三代の物語は、義清との因縁から始まっている。