人物ページ / 生年不詳–1578年 / 使者・有岡城

万見重元まんみ しげもと

万見重元は、『信長公記』に「万見仙千代」の名で記される信長方の人物です。天正6年(1578)、謀叛を起こした荒木村重のもとへ使者として遣わされ、同年12月、有岡城(今の兵庫県伊丹市)への攻撃のさなかに討死しました。

この人物を先に理解する

『信長公記』に残る仙千代の姿

  • 『信長公記』には「万見仙千代」の名で登場します。
  • 天正6年(1578)正月4日、万見の屋敷で茶会が開かれ、織田信忠おだ のぶただ・明智光秀あけち みつひで・荒木村重・羽柴秀吉はしば ひでよし・丹羽長秀にわ ながひでら9人が集まりました。
  • 同年10月、荒木村重が謀叛を企てているとの知らせが方々から届くと、信長は松井友閑・明智光秀とともに万見を村重のもとへ遣わしました。
  • 同年12月8日の有岡城(伊丹)への攻撃で、万見は奉行の一人として鉄砲衆を率いて攻め寄せ、城の壁際で討死しました。

何を担った人物か

『信長公記』で万見が出てくる場面は、茶会の場、現地の見分、使者、攻撃の奉行と、性格の違うものが並びます。天正6年(1578)6月29日には、兵庫から明石・高砂にかけての道筋を警固するため、信長の命でふさわしい場所を見て回り、その様子を信長に報告しています。

荒木村重が謀叛を企てているとの知らせが方々から届いたのは、同年10月21日のことでした。信長は松井友閑・明智光秀・万見を遣わして村重の考えを問いましたが、村重は信長のもとへ出向きませんでした。11月3日に信長が出馬したあとも、光秀・秀吉・友閑を通して話し合いが続けられましたが、村重は応じませんでした。伊丹市の解説では、黒田官兵衛くろだ かんべえも使者として有岡城に赴いたとされます。

12月8日、信長方は伊丹へ攻め寄せ、堀久太郎・万見・菅谷九右衛門の3人が奉行となって鉄砲衆を町口へ進めました。夕方から夜まで攻めたものの、城方は壁際で持ちこたえ、万見はここで討死しました。3日後の12月11日、信長は方々に付城(城を囲むための砦)を築くよう命じ、自らは古池田(今の大阪府池田市)に陣を移しました。

時系列

天正6年(1578)正月4日
万見の屋敷で茶会

織田信忠・明智光秀・荒木村重・羽柴秀吉・丹羽長秀ら9人が、万見の屋敷での茶会に集まりました。

天正6年(1578)6月29日
兵庫・明石・高砂の道筋を見分

道筋の警固のため、信長の命でふさわしい場所を見て回り、その様子を報告しました。

天正6年(1578)10月
荒木村重、信長に反旗

摂津一国を任されていた荒木村重が、大坂本願寺・毛利氏と通じて信長に背きました。10月21日、信長は松井友閑・明智光秀・万見を村重のもとへ遣わしましたが、村重は出向きませんでした。

天正6年(1578)12月8日
伊丹への攻撃で討死

堀久太郎・菅谷九右衛門とともに奉行として鉄砲衆を率いて攻め寄せ、城の壁際で討死しました。12月11日、信長は付城を築かせ、古池田に陣を移しました。

天正7年(1579)9月〜11月
村重の脱出と落城

村重は有岡城を脱出して尼崎城へ移り、11月に有岡城は落城しました。

天正7年(1579)12月
荒木一族の処刑

村重の妻子ら荒木一族が京都六条河原で処刑されたとされます。村重自身は戦い続け、天正8年(1580)7月に花熊城が落ちたのち、毛利軍の撤退とともに西へ逃れました。

読み違えないために

『信長公記』では、この人物は「重元」ではなく「万見仙千代」の名で記されています。茶会の会場となった屋敷の主、現地の見分、使者、攻撃の奉行と、場面ごとに務めが違うため、一つの肩書きだけで決めつけずに読む必要があります。また、村重のもとへ遣わされたのは万見一人ではなく、松井友閑・明智光秀と並ぶ使者の一人でした。

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参考にした資料