『信長公記』に残る仙千代の姿
何を担った人物か
『信長公記』で万見が出てくる場面は、茶会の場、現地の見分、使者、攻撃の奉行と、性格の違うものが並びます。天正6年(1578)6月29日には、兵庫から明石・高砂にかけての道筋を警固するため、信長の命でふさわしい場所を見て回り、その様子を信長に報告しています。
荒木村重が謀叛を企てているとの知らせが方々から届いたのは、同年10月21日のことでした。信長は松井友閑・明智光秀・万見を遣わして村重の考えを問いましたが、村重は信長のもとへ出向きませんでした。11月3日に信長が出馬したあとも、光秀・秀吉・友閑を通して話し合いが続けられましたが、村重は応じませんでした。伊丹市の解説では、黒田官兵衛も使者として有岡城に赴いたとされます。
12月8日、信長方は伊丹へ攻め寄せ、堀久太郎・万見・菅谷九右衛門の3人が奉行となって鉄砲衆を町口へ進めました。夕方から夜まで攻めたものの、城方は壁際で持ちこたえ、万見はここで討死しました。3日後の12月11日、信長は方々に付城(城を囲むための砦)を築くよう命じ、自らは古池田(今の大阪府池田市)に陣を移しました。
時系列
織田信忠・明智光秀・荒木村重・羽柴秀吉・丹羽長秀ら9人が、万見の屋敷での茶会に集まりました。
道筋の警固のため、信長の命でふさわしい場所を見て回り、その様子を報告しました。
堀久太郎・菅谷九右衛門とともに奉行として鉄砲衆を率いて攻め寄せ、城の壁際で討死しました。12月11日、信長は付城を築かせ、古池田に陣を移しました。
村重は有岡城を脱出して尼崎城へ移り、11月に有岡城は落城しました。
村重の妻子ら荒木一族が京都六条河原で処刑されたとされます。村重自身は戦い続け、天正8年(1580)7月に花熊城が落ちたのち、毛利軍の撤退とともに西へ逃れました。
読み違えないために
『信長公記』では、この人物は「重元」ではなく「万見仙千代」の名で記されています。茶会の会場となった屋敷の主、現地の見分、使者、攻撃の奉行と、場面ごとに務めが違うため、一つの肩書きだけで決めつけずに読む必要があります。また、村重のもとへ遣わされたのは万見一人ではなく、松井友閑・明智光秀と並ぶ使者の一人でした。
参考にした資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション「信長公記 巻之中」(太田牛一著、1881年刊)(巻之十一〔天正6年〕に、万見仙千代の屋敷での正月4日の茶会と参会者9人、6月29日の兵庫・明石・高砂間の見分、10月21日に松井友閑・明智光秀とともに荒木村重のもとへ遣わされたこと、12月8日の伊丹攻めで奉行を務め壁際で討死したこと、12月11日の付城構築と古池田への陣替え)
- 伊丹市「有岡城跡」(有岡城が伊丹市にあること、城の構造、天正6年秋からの包囲攻撃と、村重が尼崎城へ逃れたのちの落城、国史跡指定の経過)
- 伊丹市「第2回 有岡城で織田信長と戦った?!」(村重が大坂本願寺・毛利氏と通じて天正6年10月に信長に背いたこと、明智光秀・羽柴秀吉・黒田官兵衛らによる説得、村重の尼崎城への脱出、落城、荒木一族の処刑までの経過)
- 伊丹市「第4回 戦いに敗れて~その後の有岡城~」(花熊城落城後に村重が西へ逃れたこと、有岡城跡の変遷)