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平手政秀ひらて まさひで

織田信秀に仕え、若い信長の養育や補佐に関わったと伝わる家臣です。
信長を諫めるために自害したという逸話で知られますが、伝承の部分もあります。政秀を通して見ると、信長が家督を継ぐ前から、父の家臣団と周囲の期待の中で育っていたことが分かります。

織田信秀若き信長家臣団1553年

政秀は、信秀の家を支えた重臣だった

『信長公記』によれば、織田信秀は那古野に城を構えて嫡男の吉法師(のちの信長)を置き、林新五郎・平手中務丞(政秀)・青山与三右衛門・内藤勝介の4人を家老として付けました。平手はその二番目に名が挙がります。吉法師が13歳で古渡城で元服したときも、平手らが供をしています。

同書は、翌年の信長の初陣で平手が支度を整えたこと、清洲の家老衆に和睦を繰り返し説いたこと(その場ではまとまらず、翌年秋の末に和睦が成った)、平手の才覚で斎藤道三さいとう どうさんの娘との縁組がまとまったことも記しています。信長が若いころから独立した大名だったわけではなく、父が付けた家老に支えられて育ったことを示す人物です。

織田信秀

那古野に城を構えて嫡男を置き、家老を付けた父。

平手政秀

吉法師(信長)に付けられた家老の一人。『信長公記』では二番目に名が挙がる。

織田信長

那古野城に置かれた信秀の嫡男。『信長公記』は、父の葬儀で抹香を仏前へ投げつけたと伝えます。

諫死の逸話は、どう読むか

『信長公記』によれば、平手中務丞は、信長の振る舞いに実(まこと)がないのを悔やみ、守り立ててきた甲斐がないので生きていても仕方がないと言って腹を切ったといいます。名古屋市中区は、死をもって諫めた守り役の菩提を弔うため、信長が1553年(天文22)に小牧山の南の小木村に政秀寺を建てたと紹介しています。

伝えられること政秀が信長の若年期の守り役で、信長が1553年(天文22)に政秀寺を建てて菩提を弔ったこと。
慎重に見る点自害の理由は『信長公記』の記述によるもので、政秀自身が書き残したものではありません。同書はすぐ前に、長男の五郎右衛門が名馬を信長に譲らず、主従が不和になった話も載せています。
ページでの読み方政秀を、若い信長の性格を決めた一場面ではなく、父の家臣団と次世代をつなぐ人物として扱います。

『信長公記』では、政秀の自害は父信秀の死のあとに置かれています。 同書は、信秀の葬儀の話に続けて平手の自害を記し、そのすぐあとに4月下旬の正徳寺での斎藤道三との会見を置いています。政秀のページは、信長が一人で始めたわけではないことを知る入口になります。

ここだけ覚える

  • 平手政秀は、信秀に仕え、若い信長の補佐に関わったと伝わる家臣。
  • 諫死の逸話は有名だが、細部を史実として断定しない方がよい。
  • 信秀の家臣団から信長の時代へつながる人物として読む。

平手政秀から、次にたどる

参考にした資料

  • 国立国会図書館デジタルコレクション「信長公記 巻之上」(太田牛一著、1881年刊)(首巻。6コマに、信秀が那古野に城を構えて吉法師に林新五郎・平手中務丞・青山与三右衛門・内藤勝介を家老として付けたこと、信秀が古渡に新城を築いて居城としたこと。7コマに、13歳の吉法師の古渡城での元服に平手らが供をしたこと、翌年の初陣で平手が支度を整えたこと、清洲の家老衆〔坂井大膳ら〕に平手が和睦を説いたがまとまらず、翌年秋の末に和睦が成ったこと、平手の才覚で道三の娘との縁組がまとまったこと。8コマに、信秀の葬儀で信長が抹香を投げつけたこと、平手中務丞の子息3人と長男五郎右衛門の名馬をめぐる主従不和、平手が信長の振る舞いを悔やんで腹を切ったこと、続く4月下旬の正徳寺での会見)
  • 国立国会図書館レファレンス協同データベース「平手政秀・政秀寺について」(平手政秀と政秀寺について記載のある文献〔『国史大辞典』『名古屋市史 社寺編』など〕の案内)
  • 名古屋市中区「中区で辿る織田信長」(政秀寺の項に、若き日の信長の守り役として死をもって諫めた平手政秀の菩提を弔うため、信長が1553年〔天文22〕に小牧山の南の小木村に建立し、清須を経て1610年に現在地へ移ったこと)

政秀の自害の理由などには伝承が含まれます。本ページでは、信秀・信長に仕えた家臣としての位置と、逸話を史実と分けて読む点を中心に整理しました。