義澄をつかむ四つの要点
- 堀越公方の家から将軍へ:足利政知の子で、出家していたところを細川政元に推されました。
- 明応の政変で擁立:河内出陣中の義材(のちの義稙)が追放され、義澄が第11代将軍になります。
- 義稙と二つの系統をつくる:在職中から正統性を争い、1508年の義稙復帰後は近江で対抗しました。
- 敗れても系統は続く:子の義晴が第12代将軍となり、義輝・義昭まで義澄の直系が将軍職を継ぎます。
京都の外に生まれ、寺から政治へ呼び戻された
義澄は、初代堀越公方・足利政知の子として1480年に生まれました。堀越公方は、鎌倉公方に対抗するため幕府が伊豆に置いた足利一門です。義澄は幼少期に京都の寺へ入り、清晃と称しており、当初から将軍後継者として育てられたわけではありません。
状況を変えたのが、管領家の有力者細川政元でした。第10代将軍・足利義材が独自の軍事行動を強めると、政元は将軍を替える政変を起こし、足利一門から清晃を選びます。義澄の将軍就任は、寺にいた少年が突然選ばれた出来事であると同時に、将軍の交代を有力大名が武力で決める前例になりました。
1493年、明応の政変で将軍候補になる
1493年、足利義材は河内の畠山氏内紛へ出陣していました。その間に政元は京都を押さえ、義材の廃位と清晃の擁立を進めます。清晃は還俗して義遐、のちに義高と名乗り、1494年に第11代将軍へ就任しました。1502年から義澄を名乗ります。
義澄は政元の軍事力によって将軍になったため、しばしば単なる傀儡として語られます。しかし東洋大学の研究では、近江六角氏の家督問題などで義澄政権が独自に政策を進め、必ずしもすべてを政元が決めたわけではないことが指摘されています。京都府が公開する東寺百合文書にも、義高と名乗っていた時期の御内書案が残り、義澄が将軍として命令を発したことを具体的に確認できます。
| 政変前の名 | 清晃。京都の寺に入り、僧として育ちました。 |
|---|---|
| 擁立 | 1493年、細川政元が足利義材を追放し、清晃を将軍候補に選びます。 |
| 将軍就任 | 1494年に第11代将軍。義遐・義高を経て1502年から義澄と名乗ります。 |
| 政権運営 | 政元に支えられつつ、将軍奉公衆や側近を通じて命令を発しました。 |
義稙との争いで、将軍家が二つに割れた
追放された足利義稙は将軍への権利を諦めず、畿内を脱出して越中、周防へ移りながら支持者を集めました。義澄が京都で将軍職にあっても、地方には義稙の命令を受ける大名や国衆が存在します。東京大学の解説が示す通り、明応の政変は義稙系と義澄系という二人の将軍系統を生んだ室町幕府の大きな転換点でした。
義稙系
第10代将軍を追われた義稙が、大内義興らの支援を得て1508年に復帰。追放後も将軍としての正統性を主張しました。
義澄系
政元に擁立された義澄から、義晴・義輝・義昭へ続きます。1508年に京都を失っても系統は途絶えませんでした。
この分裂は一代限りで終わりません。のちに義澄の子・義晴と、もう一人の子・義維が別々の勢力に推され、将軍候補が並び立つ構図が再現されます。大名がどの足利一門を奉じるかによって、自らの軍事行動に正当性を与える時代へ移っていきました。
政元の暗殺が、義澄政権の土台を崩す
義澄を支えた政元には実子がなく、複数の養子が後継を争いました。1507年に政元が家臣に暗殺されると、細川京兆家は澄之・澄元・高国の争いに突入します。義澄は細川澄元を支持しましたが、細川高国は周防の大内義興、そして義稙と結びました。
1508年、大内軍が義稙を奉じて京都へ迫ると、義澄・澄元・三好之長らは近江へ退きます。義稙は二度目の将軍就任を果たし、高国・大内義興と政権を組みました。義澄は将軍職と京都を同時に失いましたが、政治活動まで終えたわけではありません。
近江亡命は、復帰を目指すもう一つの将軍政権
義澄は近江の水茎岡山城を拠点とし、六角氏などの支援を求めながら京都復帰を目指しました。滋賀県の城郭資料は、水茎岡山城が京都を追われた義澄を迎える際に大規模に改修されたと説明しています。近江は単なる避難先ではなく、京都へ戻る軍事・政治拠点でした。
1511年、澄元方が京都奪回へ動くなか、義澄は近江で病没しました。軍勢はその後も進軍しましたが、船岡山の戦いで高国・大内方に敗れ、義澄の生前復帰は実現しません。死因の詳しい経過は史料によって伝え方が異なるため、病没以上の断定は避ける必要があります。
しかし1521年、義稙が高国と対立して京都を離れると、高国は義澄の子足利義晴を第12代将軍に立てました。義澄自身は京都へ戻れなかったものの、その系統が義晴、義輝、義昭へ続きます。義澄の生涯は「政変で立てられた将軍の敗北」ではなく、以後の室町将軍家を分けた起点として捉えると全体像が見えます。
義澄と二つの将軍系統
のちに京都の寺へ入り、清晃と称します。
細川政元が義材を追放し、清晃を新しい将軍候補に選びます。
義高を名乗り、のちに義澄へ改名します。
後継争いによって義澄政権の軍事基盤が割れます。
大内義興・細川高国方に京都を追われ、水茎岡山城を拠点にします。
京都復帰を果たせないまま死去。澄元方も船岡山で敗れます。
義澄系が将軍職へ戻り、義輝・義昭へ受け継がれます。
関係をつないで読む
5問クイズ
Q1. 義澄を擁立した人物は?
A. 細川政元です。
Q2. 義澄が将軍候補になるきっかけの事件は?
A. 1493年の明応の政変です。
Q3. 義澄と将軍職を争った第10代将軍は?
A. 足利義稙です。義材・義尹とも名乗りました。
Q4. 1508年に追われた義澄の亡命先は?
A. 近江です。水茎岡山城を拠点に復帰を目指しました。
Q5. 義澄の系統を将軍職へ戻した子は?
A. 第12代将軍・足利義晴です。
参考にした資料
義澄を政元の傀儡だけとせず、将軍としての文書発給と政権運営、近江での政治活動を分けて確認しました。病没の細部など史料で確定しない点は断定していません。