将軍であっても、京都を自由に動かせなかった
義晴が将軍だった16世紀前半、京都では細川高国・細川晴元ら有力者の争いが続きました。将軍は政治の中心に位置しながらも、軍勢と資金を持つ有力家の支えなしに京都へとどまることが難しく、義晴自身も京都と近江を行き来します。
足利義晴
将軍家の正統性を受け継ぎ、幕府の秩序を保とうとした人物です。
細川氏
管領家として幕府政治に深く関わり、義晴の時代には内部対立が京都の主導権を左右しました。
近江の六角氏
京都を離れた将軍を支えることがあり、畿内周辺の勢力が将軍家の行動を支えました。
義輝・義昭へ続く、将軍家の分岐点
義晴の子には、後に13代将軍となる義輝と、15代将軍となる義昭がいます。義晴が経験した「将軍の権威はあるが、実力者の支えがなければ京都で政治を行えない」という課題は、二人の時代にさらに深まります。
1521年
12代将軍となる
将軍家の継承をめぐる混乱の後、義晴が将軍に就きます。
16世紀前半
京都の政争が続く
細川氏らの対立により、将軍家は京都と近江を往来する不安定な状況に置かれました。
1546年
義輝へ将軍職を譲る
嫡子の義輝が13代将軍となり、義晴は将軍家を次世代へつなぎます。
義晴は「戦国の主役」というより、義輝と義昭を理解する土台です。 この時代の京都がすでに揺らいでいたことを知ると、義昭が信長を頼って上洛する意味が見えてきます。
関連ページ
参考にした資料
義晴期の京都政治は複数の有力者の対立が重なります。このページでは、義輝・義昭につながる将軍家の位置を中心に整理しました。