合戦ページ / 1600年9月〜10月・出羽国

長谷堂城の戦いはせどうじょうのたたかい慶長出羽合戦けいちょうでわかっせん)とは

長谷堂城はせどうじょうの戦いは、1600年(慶長5年)9月、直江兼続なおえかねつぐを大将とする上杉軍が出羽の最上領へ攻め込んだ、「北の関ヶ原」と呼ばれる戦いです(慶長出羽合戦けいちょうでわかっせん)。上杉軍は米沢方面と庄内方面の二方向から侵攻し、山形城の南側最後の守りである長谷堂城に迫りましたが、志村光安しむらあきやすらの奮戦で猛攻を食い止められ、関ヶ原での西軍敗北の報せを受けて撤退しました。守り切った最上義光もがみよしあきは57万石の大大名になり、上杉は120万石から30万石へ落ちました。

1600年9月〜10月 直江兼続 対 最上義光 長谷堂城は落ちなかった 最上57万石・上杉30万石

要点

  • 会津征伐の「その後」に起きた戦い。家康が小山で引き返したあと、上杉は空いた手で隣の最上領へ攻め込んだ。会津で家康と戦うはずだった上杉軍の戦場は、出羽になった。
  • 上杉軍は二方向から攻めた。兼続の率いる本隊は米沢方面から、別働隊は当時上杉領だった庄内方面から、山形城を目指して侵攻した。最上方は支城を次々に失い、山形盆地の入口まで攻め込まれた。
  • 長谷堂城が最後の防衛線になった。山形城の西南を守る長谷堂城には志村光安が入り、圧倒的な兵力差の中で猛攻を約半月食い止めた。この粘りが、東北の勢力図を分けた。
  • 義光は伊達政宗を頼った。義光は甥にあたる政宗に援軍を求め、伊達勢が山形へ送られた。政宗は上杉と最上の共倒れも計算に入れつつ、母の実家である最上を見捨てなかった。
  • 決着をつけたのは関ヶ原の報せだった。9月15日の西軍敗北が伝わると、兼続は撤退を決断。最上・伊達勢の追撃を受けながらの撤退戦は激戦になったが、兼続は軍をまとめて米沢へ帰り着いた。
経過

侵攻から撤退まで

  1. 017月、家康が小山で反転。上杉の矛先が変わる

    会津征伐が中止になり、上杉軍は家康と戦わないまま兵を残した。景勝と兼続は、東軍についた隣国の最上義光へ矛先を向けた。

  2. 029月上旬、上杉軍が最上領へ侵攻

    兼続率いる本隊が米沢方面から、別働隊が庄内方面から攻め込んだ。2万を超えたと伝わる上杉軍に対し、最上方の兵力は大きく劣った。

  3. 03畑谷城が落ち、長谷堂城に迫る

    山形への道をふさぐ畑谷城は、城主・江口光清らが降伏を拒んで玉砕。上杉軍は山形城の目前、長谷堂城を包囲した。義光は支城を捨てて山形城に兵を集め、政宗に援軍を求めた。

  4. 049月中旬〜下旬、長谷堂城の攻防

    志村光安の守る長谷堂城は、少ない兵で上杉の猛攻を約半月しのいだ。伊達の援軍も山形近くに着陣し、上杉軍は城を抜けないまま時間を失った。

  5. 059月末、関ヶ原の敗報が届く

    本戦はとっくに終わっていた。9月15日の西軍敗北が出羽に伝わると、上杉軍が最上領に留まる理由は消えた。

  6. 0610月1日、撤退開始。追撃戦へ

    兼続は撤退を決め、最上・伊達勢が追撃した。義光自身も先頭に立って追ったと伝わる激戦の末、兼続は軍を崩さず米沢へ引き揚げた。

顔ぶれ

この戦いの中心人物

立場この戦いではその後
直江兼続なおえ かねつぐ上杉軍の大将。米沢方面から侵攻長谷堂城を抜けず、敗報を受けて撤退。追撃下の退き際は敵からも評価されたと伝わる米沢30万石となった上杉家の立て直しを担う
最上義光もがみ よしあき山形城主。東軍につく支城で時間を稼ぎ、山形城に兵を集めて持ちこたえる。撤退戦では自ら追撃したと伝わる庄内などを得て57万石。徳川・豊臣を除き全国屈指の大大名に
志村光安最上家臣。長谷堂城の守将寡兵で約半月、上杉の猛攻を食い止めた。この戦いの最大の功労者戦後、庄内の東禅寺(酒田)城主に取り立てられる
伊達政宗だて まさむね義光の甥。東軍につく叔父の求めに応じて援軍を派遣。自身は南の白石方面で上杉領を攻めた(白石城の戦い戦後加増は白石など限定的。「百万石のお墨付き」は果たされず
上杉景勝うえすぎ かげかつ会津120万石の当主会津から全体を指揮。家康との決戦は起きないまま、戦場は出羽になった米沢30万石へ減封。家名は幕末まで続く

義光と政宗の関係は、義光の妹・義姫が政宗の母という叔父・甥の間柄。ふだんは領地を争ってきた両家が、この戦いでは上杉という共通の敵を前に手を組んだ。

検証

語られる場面と、確かめられること

伝承 語られてきた場面

追撃の先頭に立った義光の兜に敵の銃弾が当たったという場面や、「兼続の退き際の見事さは敵味方に賞賛され、家康も褒めた」という話が有名。義光所用と伝わる、弾痕の残る兜が山形の最上義光歴史館に伝来しており、伝承に実物の裏づけがある珍しい例になっている。

史料 確かめられること

上杉軍が米沢・庄内の二方向から侵攻したこと、長谷堂城が落ちないまま関ヶ原の敗報で上杉軍が撤退したこと、戦後に最上が57万石へ大加増され、上杉が米沢30万石へ減封されたことは記録から確かめられる。個々の武勇の場面は後世の軍記によるものが多く、細部は差し引いて読む。

  • 「北の関ヶ原」は本戦より長く戦っていた。関ヶ原本戦は一日で終わったが、出羽では9月上旬から10月まで戦いが続いた。本戦の結果が届くまでの時間差が、この戦いの独特の緊張を生んでいる。
  • 長谷堂城は「戦うための城」だった。独立した丘全体が城で、土塁や曲輪の遺構が今も残る。斜面に植えられたシャガ(葉が滑りやすい植物)は敵を登りにくくするためと伝わり、統治の城・山形城との役割分担がよく分かる。
どう読むか

長谷堂から、関ヶ原と東北を読む

  • 関ヶ原の勝敗が、戦っていない場所の運命も決めた。長谷堂城は落ちず、上杉軍は負けて撤退したわけではない。それでも上杉が120万石を失ったのは、勝敗が出羽ではなく美濃で決まったから。地方戦の損得は現地の勝ち負けではなく中央の結果で決まる――それがこの年の戦の構造だった。
  • 守り切った側が、東北の勝者になった。義光の57万石は、戦場での勝利というより「東軍側で持ちこたえた」ことへの恩賞だった。政宗の加増が小さかったことと並べると、家康が戦後の東北をどう設計したかが見える。
  • 上杉の会津時代は3年で終わった。秀吉が会津120万石に置いた上杉は、この戦いのあと米沢30万石へ移された。直江状から始まった1600年の上杉の一年は、家康と一度も直接戦わないまま、家の規模を4分の1にして終わった。

開戦までの経緯は直江状会津征伐、義光の生涯は最上義光もがみ よしあきで整理しています。

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参考にした資料