場所ページ / 石山退去以来の教如支持層が、家康の寺地寄進で一つの本山になる

東本願寺

東本願寺は、1602年に徳川家康が本願寺教如へ京都烏丸六条・七条間の寺地を与えたことから始まる、現在の真宗大谷派の本山・真宗本廟です。成立の前提は1580年の石山本願寺退去にあります。顕如が信長との講和に従って退去したのに対し、長男教如は石山へ残り、その後も教如を支える門徒・坊官のまとまりが続きました。顕如没後、教如はいったん寺務を担いますが、1593年に秀吉の命で隠退し、三男准如が京都六条堀川本願寺を継ぎます。それでも教如は活動を止めず、1595年に大坂渡辺で大谷本願寺を開き、1598年には現在の難波別院・南御堂の地へ移りました。秀吉の死、関ヶ原を経た1602年、家康が京都東六条の寺地を寄進。1603年に上野国妙安寺から宗祖親鸞の御真影を迎えて阿弥陀堂を建て、1604年に御影堂を建立し、新しい本願寺を整えます。これにより准如の堀川六条本願寺と教如の烏丸六条本願寺が並立し、位置から西本願寺・東本願寺と呼ばれるようになりました。東西分立は家康が突然一つの教団を割っただけではなく、石山退去・継承交替・支持層の分岐・二人の天下人の寺地政策が二十年以上重なった結果です。

1593年 教如隠退 1602年 家康の寺地寄進 1603~04年 両堂建立 現在の真宗本廟
分立は1602年に突然始まったのではない。 1580年の石山残留から続く教如の支持層が、大坂の拠点と家康の寺地寄進を経て本山になりました。
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東本願寺を見る要点

東本願寺は、准如が継いだ京都六条本願寺とは別に、隠退していた教如が家康から寺地を得て成立させた本願寺です。教如個人へ土地を与えただけでは本山になりません。教如を長年支えた門徒、坊官、御真影、堂舎、寺務組織が集まって、もう一つの本願寺が成立しました。

  • 1593年、教如が隠退し、准如が京都本願寺を継承
  • 1595年、教如が大坂渡辺に大谷本願寺を開く
  • 1598年、現在の難波別院・南御堂の地へ移転
  • 1602年、家康が京都東六条の寺地を寄進
  • 1603~04年、御真影を迎え、阿弥陀堂・御影堂を建立

戦国史として重要なのは、東本願寺の創立年だけではありません。石山合戦をどう終えるかという判断の違いが、豊臣から徳川へ政権が移る中で、本山と宗主系統の分立へ変わったことです。

東本願寺をつくる六つの層

教如

石山残留と隠退を経験し、それでも独自の教化・寺務活動を続けた宗主。

支持する門徒

流浪・隠退中も教如を支え、新本山の人的・経済的な基盤となった。

大坂の前身

渡辺・難波の大谷本願寺が、1602年まで教如側の中心を担った。

家康の寺地寄進

教如の活動基盤を京都の本山として固定した政治的な契機。

御真影と両堂

宗祖の御影、阿弥陀堂、御影堂がそろい、本山の礼拝機能を整えた。

東西分立

同じ親鸞の教えを継ぎながら、本山・宗主・所属寺院が二系統へ分かれた。

人物と勢力の関係

本願寺教如石山残留、継承と隠退、大坂での活動を経て東本願寺を創立した宗主。
本願寺准如1593年に京都六条本願寺を継ぎ、西本願寺系の第12代と数えられる弟。
本願寺顕如教如・准如の父。石山講和と退去を選び、京都へ本山を戻した第11代宗主。
豊臣秀吉1593年に教如を隠退させて准如の継承を認め、大坂の教如拠点も都市政策の中で移した。
徳川家康1602年に教如へ京都東六条の寺地を与え、本山並立の条件を整えた。
教如支持の門徒・坊官石山退去後も教如との関係を保ち、新本山の組織を支えた。

じっくり年表

1580
顕如が信長との講和に従って石山を退去。教如は門徒と残り、約四~五か月抗戦します。
1582
本能寺の変前後、顕如と教如の関係が修復され、教如は本願寺の再建過程へ戻ります。
1591
秀吉が京都六条堀川の寺地を本願寺へ寄進。顕如・教如・准如らが京都へ移ります。
1592
顕如が死去し、長男教如がいったん本願寺の寺務を担います。
1593
秀吉の命で教如が隠退し、三男准如が京都本願寺を継承します。
1595
教如が大坂渡辺、大川沿いに大谷本願寺を開きます。
1598
秀吉の大坂城下町整備に伴い、大谷本願寺が現在の南御堂・難波別院の地へ移ります。同年、秀吉が死去します。
1600
関ヶ原の戦いで徳川家康が主導権を握り、豊臣期の宗教・都市秩序も再編へ進みます。
1602
家康が教如へ京都烏丸六条・七条間の寺地を寄進します。
1603
上野国妙安寺から親鸞自作と伝わる御真影を迎え、阿弥陀堂を建立します。
1604
御影堂を建立。新しい本願寺の礼拝・寺務機能が整います。
1614
教如が57歳で死去。東本願寺の宗主系統と教団が後代へ継承されます。
1788~1864
京都大火・境内火災・禁門の変などで、両堂は四度焼失します。
1895
現在の御影堂・阿弥陀堂が落慶します。

東本願寺・真宗本廟・大谷本願寺

東本願寺西側の本願寺と位置で区別する通称。一般的な案内名として広く使われます。
真宗本廟現在の真宗大谷派本山としての正式な呼び方。
本願寺1602年に教如が整えた当初の本山。最初から別教義の新宗派名を掲げたわけではありません。
大谷本願寺1595年以後、教如が大坂渡辺・難波に置いた東本願寺の前身拠点。
お東さん京都の人々や門徒に親しまれている呼び名。

なぜ教如には、別の本山が必要だったのか

1593年に隠退したからといって、教如の宗教活動と人間関係が消えたわけではありません。石山残留以来、教如を宗主として支持する門徒や坊官が各地にいました。

准如が京都六条本願寺を正式に運営する一方、教如も消息の発給、門徒との交流、御影・本尊を中心とする教化を続けます。二つの支持基盤が実際に活動していたため、1602年の寺地寄進が本山成立へ結びつきました。

教如と准如は、単純な敵同士ではない

兄弟は同じ顕如の子で、同じ親鸞の教えと本願寺の歴史を継ぎます。対立したのは教義そのものより、誰が宗主として寺務を担うか、どの門徒・坊官がどちらの系統に属するかという継承と組織の問題でした。

後世の東西教団の境界を、1593年以前の人間関係へそのまま当てはめることも危険です。所属が固まるまでには移動・再編があり、地域によって関係の持ち方も異なりました。

1595年――大坂渡辺の大谷本願寺

隠退後の教如は、1595年に大坂渡辺、大川の天満橋・天神橋間付近に大谷本願寺を開きました。これは教如側が1602年まで何の拠点も持たなかった、という理解を修正します。

渡辺は河川交通と大坂城下に近い場所です。教如と門徒の宗教活動を支える一方、秀吉の城下町拡張と重なるため、長く同じ場所に留まることはできませんでした。

1598年――難波へ移る

秀吉は大坂城下町の整備を進め、渡辺の大谷本願寺へ移転を命じました。1598年、教如の拠点は現在の難波別院・南御堂の地へ移ります。

この大谷本願寺は、1602年に京都の東本願寺が成立するまで、後の「お東」側の中心でした。京都移転後も難波の寺は廃絶せず、地域門徒の別院として続きます。

「文禄五年大谷本願寺」銘の梵鐘

現在の難波別院には、教如が建立した大谷本願寺に関わる「文禄五年大谷本願寺」銘の梵鐘が伝わります。文禄五年は1596年です。

後世の伝承だけでなく、教如側の拠点が1602年以前の大坂に存在し、本願寺を名乗って活動していたことを物として伝える重要な手がかりです。

秀吉の死と関ヶ原が、政治条件を変える

教如が大坂で活動していた1598年に秀吉が死去し、1600年の関ヶ原の戦いで家康が全国政治の主導権を握ります。准如の継承を裁定した豊臣政権から、教如と関係を持つ徳川政権へ政治条件が変わりました。

ただし、東本願寺成立を関ヶ原の論功行賞だけにすることはできません。教如の支持組織と大坂の本願寺が先に存在し、政権交代がそれを京都の本山へ移す機会になったと見る方が実態に近づきます。

1602年――家康が東六条の寺地を寄進

1602年、徳川家康は教如へ京都烏丸六条・七条間の寺地を与えました。現在の東本願寺がある烏丸通七条上る一帯です。

西側の堀川六条には准如の本願寺がすでにありました。家康の寄進によって、教如の支持組織は京都に恒久的な寺地を持ち、二つの本願寺が都市空間でも並び立つことになります。

家康は、なぜ教如へ土地を与えたのか

既存の関係

教如は隠退後も家康と関係を持ち、徳川政権側に接近していました。

支持組織

教如を支える門徒・寺院を、京都の公認本山として位置づけられます。

豊臣秩序の再編

秀吉が准如を認めた教団配置に、徳川側の新しい配置を重ねました。

京都政策

宗教教団の中心を寺地寄進によって政権秩序へ結びつけました。

「強大な本願寺を弱体化するため、家康が一方的に二分した」と断定するだけでは、教如側の二十年以上の形成過程を説明できません。分立は家康の政策でもあり、教如支持層の本山獲得でもありました。

烏丸六条・七条間――京都駅の北に置かれた本山

西堀川六条の本願寺、現在の西本願寺。
教如の烏丸六条本願寺、現在の東本願寺。
現在の京都駅・七条方面。参詣と都市交通の結節に近い。
東側のちに渉成園が整えられ、本山の飛地境内となる。

東・西の名称は、教義の方向性ではなく京都での位置関係から定着しました。二つの巨大本山と門前町が並ぶ景観は、1602年以後の京都南部を特徴づけます。

1603年――御真影を迎えて本山になる

1603年、教如は上野国妙安寺、現在の群馬県前橋市から、宗祖親鸞の自作と伝えられる御真影を迎えました。同年に阿弥陀堂を建立します。

寺地と建物だけでは、本願寺の宗教的中心は完成しません。宗祖の御影を安置し、門徒が参詣し、法要を営むことで、教如側の本山としての象徴と礼拝機能が整いました。

1603年の阿弥陀堂、1604年の御影堂

阿弥陀堂1603年建立。阿弥陀如来を本尊とする礼拝の堂。
御影堂1604年建立。宗祖親鸞の御真影を安置する堂。
寺務宗主・坊官・文書・地方寺院との連絡を担う教団運営の機能。
門徒参詣・寄進・普請・法要によって堂舎と組織を支えた。

両堂と御真影、寺務組織がそろうことで、単なる教如の隠居寺ではなく、新しい本願寺が成立しました。

東西分立は、四段階で見ると分かりやすい

第一段階・1580年石山退去をめぐり、顕如と教如の判断が分かれた。
第二段階・1593年教如が隠退し、准如が京都本願寺を継承した。
第三段階・1595~98年教如側が大坂で独自の本願寺と門徒組織を維持した。
第四段階・1602~04年家康の寺地寄進と両堂建立で、京都に二本山が並立した。

1602年は決定的な年ですが、出発点ではありません。戦争終結、宗主継承、地域組織、政権交代が段階的に積み重なっています。

東と西で、教えが別物になったのか

東本願寺も西本願寺も親鸞を宗祖とし、阿弥陀如来の本願をよりどころとする浄土真宗を継承します。1602年に新しい教義が作られ、別宗教になったのではありません。

分かれたのは、本山、宗主の系譜、坊官組織、所属する寺院・門徒のまとまりです。その後の長い歴史の中で制度・教学・文化にそれぞれの特徴が育ちました。

教如も准如も「第12代」

真宗大谷派教如を本願寺第12代と数え、東本願寺創立の上人と位置づけます。
浄土真宗本願寺派准如を第12代宗主と数え、京都堀川の本願寺を継承したと位置づけます。
教如の実務顕如死後、1593年の隠退まで実際に寺務を担いました。
准如の実務1593年以後、秀吉から認められた京都本願寺宗主として運営しました。

現在の宗派ごとに継承系譜が異なるため、人物紹介では「東本願寺系の第12代」「西本願寺系の第12代」と明記すると混乱を避けられます。

1614年、教如の死後も本山は続く

教如は1614年に57歳で死去します。しかし東本願寺は教如個人の一代限りの寺にはなりませんでした。宗主の系譜、坊官、所属寺院、門徒、堂舎と法要が次代へ継承されます。

ここで東西分立は一時的な兄弟対立ではなく、二つの近世教団として定着します。本願寺の歴史は、戦国の一つの巨大教団から、京都を中心とする二つの全国教団へ移りました。

東寺内は、少し遅れて整う

本山成立と同時に現在の門前町が完成したわけではありません。京都市の資料では、1641年の幕府寄進によって東本願寺の寺内町、東寺内が形成されたと説明されます。

坊官・僧侶・参詣者を支える宿、仏壇・法衣・数珠・表具を扱う商工業者が集まり、西寺内とともに京都南部の町並みを形づくりました。

現在の堂舎は、1603~04年の建物ではない

東本願寺は1788年の天明の大火、1823年の境内火災、1858年の京都大火、1864年の禁門の変による戦火で、両堂を四度失いました。

そのため、現在の御影堂と阿弥陀堂は教如建立時の建物ではありません。現在の両堂は1895年に落慶した明治期の再建です。同じ場所・本山機能・信仰は続きますが、建物の年代は分ける必要があります。

現在の東本願寺で何を見る?

御影堂親鸞の御真影を安置する927畳の大空間。現在の建物は1895年落慶。
阿弥陀堂阿弥陀如来を安置し、御影堂と並ぶ本山の中心堂舎。
御影堂門巨大な二重門。現在の本山正面を象徴する建築。
毛綱明治再建の巨材運搬に用いた、門徒寄進の毛髪と麻を撚った綱。
烏丸通西本願寺との位置関係と、京都駅北側の都市本山という立地を見る。

渉成園は創立時からあったのか

東本願寺の東側にある渉成園は、池泉回遊式庭園を持つ飛地境内です。しかし1602年の本山創立時から現在の庭園が完成していたわけではありません。

東本願寺を歩くときは、教如が整えた両堂と本山の成立、後世に整備された寺内町・別邸・庭園を同じ年代にまとめず、時代の層を分けて見る必要があります。

東本願寺と西本願寺を比べる

宗主系統東:教如の系統。西:准如の系統。
寺地東:1602年、家康が烏丸六条へ寄進。西:1591年、秀吉が堀川六条へ寄進。
第12代東:教如。西:准如。
現在の本山名東:真宗本廟・真宗大谷派。西:本願寺・浄土真宗本願寺派。
現在の主要堂宇東:主に1895年再建。西:御影堂1636年、阿弥陀堂1760年。

どちらが「本物」でどちらが「分家」という一方向の見方だけでは、現在まで続く二つの法統を理解できません。成立事情と各系統の数え方を並べて読むことが重要です。

教如の道――石山から東本願寺まで

石山本願寺1580年、顕如退去後も門徒と残留。教如独自の支持を可視化した場所。
鷺森以後父との関係修復を経て、貝塚・天満・京都の本願寺再建へ戻る。
京都六条本願寺顕如死後に寺務を担うが、1593年に隠退。
大坂渡辺・難波1595~1602年、教如側の本願寺と門徒組織を維持。
京都東六条1602年以後、家康の寺地寄進を受けて新しい本願寺を建立。

東本願寺を読むときの注意点

  • 東西分立を、家康が1602年に突然一つの教団を割った事件だけにしない
  • 教如が1593年の隠退から1602年まで何もしていなかったと考えない
  • 大坂渡辺の大谷本願寺と、1598年以後の難波別院の位置を混同しない
  • 「東・西」を教義の優劣や思想方向ではなく、京都での位置関係として読む
  • 教如と准如を単純な敵、または性格の違いだけで説明しない
  • 現在の両堂を、教如が1603~04年に建てた堂そのものとしない
  • 顕如の没年と准如継承年を混同しない。顕如は1592年、継承交替は1593年

東本願寺から戦国を読むと

敗戦後も支持層は残る

石山を失っても、教如と門徒の関係は二十年以上続き、本山を生みました。

隠退は活動停止ではない

公的な本願寺を離れても、大坂の拠点で教化と組織運営を続けました。

政権交代が教団を再配置する

秀吉の継承裁定と家康の寺地寄進が、二つの本山を形づくりました。

分立は長い過程

1580年の判断差から1604年の両堂完成まで、複数段階で進みました。

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10問クイズ

Q1. 東本願寺を創立した本願寺宗主は?

A. 本願寺教如です。

Q2. 1593年、教如に代わって京都本願寺を継いだ弟は?

A. 本願寺准如です。

Q3. 教如が1595年に大谷本願寺を開いた大坂の地域は?

A. 渡辺です。

Q4. 大谷本願寺が1598年に移った現在の別院は?

A. 難波別院、通称南御堂です。

Q5. 教如へ東六条の寺地を与えた天下人は?

A. 徳川家康です。

Q6. 寺地寄進は何年?

A. 1602年です。

Q7. 1603年に上野国妙安寺から迎えたものは?

A. 親鸞自作と伝えられる御真影です。

Q8. 1603年と1604年に建てられた二つの堂は?

A. 阿弥陀堂と御影堂です。

Q9. 現在の東本願寺本山の正式な呼び方は?

A. 真宗本廟です。

Q10. 現在の両堂が落慶した年は?

A. 1895年です。

参考資料