徳川家康の正室・信康の母・1579年の事件

築山殿

築山殿は家康の正室で、松平信康の母です。1579年に信康と同じ時期に亡くなったため、多くの物語が生まれました。ここでは悲劇を断定的な悪女像にせず、織田・徳川同盟と後継問題の中で読みます。

築山殿を最初に押さえる

  • 今川氏に近い家の出身とされ、家康の正室となった。
  • 家康との間に信康と亀姫をもうけた。
  • 信康は信長の娘・徳姫と婚姻し、織田・徳川同盟の次代を担った。
  • 1579年の死の理由は史料・軍記で異なり、細部を断定できない。

家族と同盟が重なった場所

家康と築山殿の婚姻は、今川氏の支配下にあった三河の政治と結び付きます。家康が独立して織田信長と同盟を結んだ後も、築山殿とその子信康は、今川につながる過去と織田につながる未来の間に置かれました。

信康は徳姫と婚姻しました。この婚姻は清洲同盟を家族関係で補強するものですが、家の内側の緊張も生みます。1579年に築山殿と信康が相次いで亡くなったことは確かでも、徳姫の訴え、武田氏との内通、信長の要求といった説明は後代の記録にも強く依存します。

そのため、築山殿を一つの罪で処罰された人物と決め付けないことが重要です。家康が信長との同盟を守りながら、嫡男と正室を失う決断を迫られた。事件は、戦国大名の家族が外交と継承から自由ではなかったことを示します。

年表で追う

1560年代
家康の正室として

三河を固める家康の家族の中心となる。

1570年代
信康と徳姫の婚姻

織田・徳川同盟を次世代へつなぐ。

1579年
死去

信康と同時期に亡くなり、家康の後継構想が変わる。

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