要点
- 甲斐を一つにまとめた。家督を継いだ1507年ごろの甲斐は、武田一族の分家や国衆が各地に割拠していた。信虎はこれらを制して甲斐をほぼ統一した。
- 甲府を作った。1519年に躑躅ヶ崎館を築き、家臣を周囲に住まわせて城下町を整えた。以後、甲府は武田氏三代の本拠となる。
- 領国の外へ出兵を重ねた。信濃や駿河方面への出兵を繰り返し、今川家とは婚姻で結んだ。
- 1541年、追放された。駿河の今川義元を訪ねた帰路を閉ざされ、甲斐へ戻れなくなった。家臣団の支持を得た晴信が家督を継いだ。
- 信玄より長生きした。駿河、のちに京都などで暮らし、1574年に81歳で死去。信玄の死の翌年だった。
何をした人物か
信虎が家督を継いだころの甲斐は、守護である武田氏の力が弱く、一族の分家や有力な国衆がそれぞれ独立して争う状態でした。信虎はこれらの勢力を一つずつ従え、甲斐をほぼ統一します。戦国大名としての武田氏は、ここから始まります。
1519年、信虎は本拠を甲府に移し、躑躅ヶ崎館を築きました。館の周りに家臣の屋敷と町を作り、政治と経済の中心を一か所に集めたことは、のちに各地の戦国大名が行う城下町づくりの早い例です。信玄の領国経営は、この父の土台の上に築かれました。
一方で信虎は、信濃や駿河への出兵を繰り返し、家臣に重い負担を強いました。1541年、駿河の今川義元のもとを訪ねた信虎は、その帰路を嫡男の晴信に閉ざされ、甲斐に戻れなくなります。晴信が家臣団の支持を得て家督を継いだこの出来事は、単なる親子の対立ではなく、家臣団ぐるみの政変と考えられています。追放後の信虎は駿河で暮らし、晩年は京都や信濃を訪れ、1574年に死去しました。
年表で追う
- 011494年:誕生
武田氏当主の子として生まれる。
- 021507年ごろ:家督相続
幼くして家を継ぎ、一族・国衆との争いに入る。
- 031519年:躑躅ヶ崎館を築く
本拠を甲府に移し、城下町を整える。
- 041521年:晴信(信玄)誕生
今川方の侵攻を退けた直後に嫡男が生まれる。
- 051541年:追放
駿河からの帰路を閉ざされ、晴信が家督を継ぐ。
- 061574年:死去
信濃で死去。81歳。信玄の死の翌年。
信虎を読むときに気をつけたいこと
- 「暴君」の像は後世の記録によるところが大きい。『甲陽軍鑑』などは信玄を中心に書かれており、追放を正当化するために信虎の悪行が強調された面がある。同時代の史料から見える信虎は、甲斐統一と甲府建設を成し遂げた有能な当主でもある。
- 追放の経緯には不明な点が残る。晴信の主導か家臣団の主導か、今川義元がどこまで関わったかについて、見方が分かれている。
- 家督相続の年には諸説ある。父の死と家督相続の時期は史料によって幅があり、1507年前後とされる。