要点
- 分家から宗家を継いだ。伊作家・相州家の当主・島津忠良の子で、1526年に宗家の島津勝久の養子となった。しかし一族の薩州家などが反発し、勝久も翻意して争いになった。
- 当主の座を固めるのに時間がかかった。父・忠良とともに薩州家や勝久方と戦い、1539年ごろに薩摩半島を押さえて当主の地位を確立した。
- 内城を本拠にした。1550年、鹿児島に内城を築いて本拠とした。島津氏の本拠が鹿児島に定まった出発点である。
- 三州統一に乗り出した。子の義久・義弘を率いて薩摩の国衆を従え、大隅・日向へ進んだ。統一の完成は義久の代だが、土台は貴久が作った。
- 鉄砲とキリスト教を受け入れた。1543年に種子島に伝わった鉄砲を早くから戦いに用い、1549年にはザビエルの鹿児島上陸を許した。
何をした人物か
貴久は島津氏の分家・伊作家の島津忠良の子として生まれました。このころの島津宗家は力が弱く、当主の勝久は一族の薩州家に押されていました。勝久は1526年、忠良の子・貴久を養子に迎えて後継とし、忠良に実権を委ねます。しかし薩州家が反発し、勝久自身も態度を変えたため、貴久と忠良は宗家・薩州家の両方と戦うことになりました。
忠良・貴久父子は10年以上かけて薩摩半島の国衆を従え、1539年ごろまでに当主の地位を固めました。1550年、貴久は鹿児島に内城を築いて本拠とし、三州統一に乗り出します。子の義久・義弘・歳久・家久を率いて薩摩の国衆を従え、大隅の肝付氏、日向の伊東氏との戦いを始めました。三州統一が完成するのは1577年、義久の代ですが、その土台は貴久が作ったものです。
貴久は新しいものを受け入れる当主でもありました。1543年に種子島へ伝わった鉄砲をいち早く戦いに使い、1549年にはフランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸を許して布教を認めています。1566年に家督を義久に譲り、1571年に死去しました。島津氏が戦国大名として立ち上がる過程は、貴久の生涯とほぼ重なります。
年表で追う
- 011514年:誕生
伊作家・相州家の島津忠良の子として生まれる。
- 021526年:宗家の養子に
島津勝久の養子となるが、一族の反発で争いに。
- 031539年ごろ:当主の地位を確立
薩州家・勝久方を退け、薩摩半島を押さえる。
- 041549年:ザビエルを迎える
鹿児島でザビエルと会い、布教を許す。
- 051550年:内城を本拠に
鹿児島に内城を築く。三州統一に着手。
- 061566年:義久に家督を譲る
隠居して義久を後見する。
- 071571年:死去
58歳。三州統一は義久の代に完成する。
貴久を読むときに気をつけたいこと
- 当主確立の年には幅がある。家督相続を1526年とするか、実権を固めた1539年前後とするかで、史料や解説によって記述が異なる。
- 「三州統一」は義久の代の完成。貴久は着手した当主であり、完成させたのは子の義久。貴久一人の功績とするのは言いすぎになる。
- ザビエルへの対応は途中で変わった。当初は布教を許したが、仏教勢力の反発などから後に布教を制限した。キリシタン大名とは性格が異なる。