人物ページ / 犬居城を守った北遠江の国衆

天野景貫(藤秀)

天野景貫は、同時代文書では天野藤秀の名で確認される犬居天野氏の当主です。北遠江の犬居城を本拠に、今川氏へ従ったのち、一時は徳川家康に服属し、やがて武田信玄を選びました。主君を替えた人物とだけ見るのではなく、遠江と信濃を結ぶ山間の領地・一族・住民を守る国衆の立場から追うと、選択の理由と犬居城の激戦がつながります。

生没年不詳 北遠江の国衆 犬居城 今川・徳川・武田

景貫をつかむ四つの要点

  • 史料上の名は藤秀:景貫の名で広く知られますが、浜松市が紹介する同時代の犬居城主は天野藤秀です。
  • 犬居は国境の要地:北遠江から信濃へ通じる道を押さえ、今川・徳川・武田の境目に位置しました。
  • 武田を選んだのは地理も大きい:武田領に近く、徳川だけに従えば北から攻め込まれる危険がありました。
  • 1575年頃に犬居を失う:徳川軍を一度退けた後、再攻撃で落城し甲斐へ退去。その後の確実な動向と没年は不明です。

景貫と藤秀――名前に残る史料のずれ

犬居城主は一般向けの人物事典や物語で「天野景貫」と呼ばれてきました。一方、浜松市の文化財解説は、1572年に武田軍を先導した城主を「天野藤秀」と記します。天野文書を重視する近年の研究では藤秀と景貫を同一人物とみる説が有力ですが、旧来の系図には親子・別人として扱うものもあります。

このため、活動の確かな部分では同時代文書に沿って藤秀と記し、広く知られる景貫を併記します。なお、犬居天野氏の別系統に「天野景泰」という人物もおり、藤秀・景貫とは別人です。三つの名を混同すると、今川氏から離れた一族と武田方へ進んだ人物の動きが入れ替わってしまいます。

天野藤秀同時代文書と浜松市の文化財解説で確認される犬居城主の名です。
天野景貫後世の系図・人物紹介で広く知られる名。同一人物とみる説が有力です。
天野景泰犬居天野氏の別系統に属する別人で、藤秀・景貫とは区別が必要です。

犬居城と北遠江が、選択の条件を決めた

天野氏は承久の乱後に山香荘の地頭となったとされ、室町時代以後は犬居城を拠点に北遠江の国衆として成長しました。1501年前後に今川氏の配下へ入り、北遠江一円に影響力を持ちます。戦国大名の直属家臣とは異なり、地域に所領・被官・城を持ったまま大名へ従う存在でした。

犬居城は現在の浜松市天竜区春野町にあり、遠江平野から秋葉街道を北上して信濃へ向かう山間部を押さえます。南からは徳川、北からは武田の軍勢が入り得る位置でした。どの大名に従うかは理念だけで決められず、近い側の軍事圧力、援軍が届く方向、在地の一族関係を同時に考える必要がありました。

今川氏

遠江を長く支配した主家。天野氏は約半世紀にわたり、その支配下で北遠江を治めました。

徳川氏

三河から遠江へ進出。今川領の解体後、天野氏も一時は家康へ従います。

武田氏

信濃側から犬居へ圧力をかけられる勢力。景貫は最終的に武田方を選び、遠江侵攻を先導しました。

今川から徳川、そして武田へ

1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏の遠江支配は揺らぎます。天野氏は当初、今川氏真との関係を保ちましたが、徳川家康が遠江へ進出すると一時その支配を受け入れました。領地を維持するため、目前の優勢な大名と服属関係を結ぶ国衆の判断です。

しかし犬居は武田領に近く、家康への服属だけでは北からの攻撃を防げません。景貫はやがて武田信玄へ接近し、1572年の遠江侵攻では犬居城主・天野藤秀として武田軍を先導しました。天野氏は光明城や只来城の攻略にも力を発揮し、犬居城は武田式の横堀や馬出を備える城へ改修されます。

この選択は、強者へ無原則に乗り換えたというより、武田の軍事力を利用して北遠江の自立を保とうとしたものと考えられます。ただし結果として家康の遠江統一を妨げる位置に立ち、犬居は徳川軍が必ず攻略しなければならない城になりました。

犬居城攻防――一度は家康を退ける

信玄の死後も、景貫は武田勝頼方にとどまりました。1574年、家康は犬居へ進軍しますが、山間の地形と天候に苦しみ、天野方の追撃を受けて撤退します。後世に「犬居崩れ」と呼ばれる戦いで、徳川軍を一度退けたことは浜松市の解説でも確認できます。

山城の防御だけで勝ったのではありません。狭い谷筋では大軍が広がれず、退却路も限られます。土地を熟知する国衆が追撃すれば、平野部で優勢な徳川軍にも大きな損害を与えられました。犬居城の大規模な横堀や曲輪は、武田の築城技術と天野氏の在地支配が組み合わさった痕跡です。

しかし翌1575年頃、長篠の戦い後に攻勢を強めた徳川方は犬居城を再び攻め、城は落ちました。浜松市の資料には1575年の落城と、1574〜1576年にわたる周辺城砦の攻防という二つの整理があるため、細かな月日には幅をもたせる必要があります。

犬居を失った後、記録は急に薄くなる

落城した景貫は犬居を離れ、武田氏を頼って甲斐へ退いたと浜松市資料は伝えます。国衆としての基盤は犬居の所領・城・被官にあったため、本拠を失うことは独立した地域領主としての終わりを意味しました。

その後も武田氏に従ったと考えられますが、1582年の武田氏滅亡後を含め、確実な足取りは公的な解説資料だけでは十分に追えません。後北条氏へ仕えたとする研究・系図もありますが、同名人物との区別や年代の検討が必要です。没年・死因も不明であり、「犬居落城後に戦死した」などと断定することはできません。

分かる終点と、分からない最期

確実に押さえられるのは、武田方として犬居を守り、落城後に甲斐へ退いたところまでです。その後の不確かさ自体が、領地を失った国衆の記録が残りにくいことを示しています。

景貫(藤秀)の選択を年表で追う

1501年前後
天野氏が今川氏配下へ

犬居城を拠点に、北遠江を治める国衆として活動します。

1560年
桶狭間で今川支配が揺らぐ

今川義元の死後、徳川と武田が遠江へ勢力を伸ばします。

1560年代後半
一時、徳川家康に従う

家康の遠江進出に応じて服属しますが、武田領に近い犬居の情勢は安定しません。

1572年
武田軍を先導

信玄の遠江侵攻で武田方となり、犬居城も武田式に改修されます。

1574年
徳川軍を撃退

山間の地形を生かし、家康の犬居攻めを一度退けます。

1575年頃
犬居城が落城

徳川方の再攻撃で本拠を失い、武田氏を頼って甲斐へ退きます。

その後
動向・没年は不明

武田滅亡後を含む確実な経歴は史料が乏しく、複数の伝承が残ります。

関係をつないで読む

5問クイズ

Q1. 景貫の同時代文書上の名は?

A. 天野藤秀です。

Q2. 天野氏の本拠は?

A. 北遠江の犬居城です。

Q3. 桶狭間後、景貫が一時従った勢力は?

A. 徳川家康です。

Q4. 1572年に先導した軍勢は?

A. 武田信玄の遠江侵攻軍です。

Q5. 犬居落城後の最期は分かっている?

A. いいえ。甲斐へ退いた後の確実な動向と没年は不明です。

参考にした資料

藤秀・景貫の同一人物説には旧系図との違いがあり、没年も確定していません。浜松市・静岡県の文化財解説で確認できる藤秀の活動を中心にし、系譜と落城後の経歴は不明点を明示しました。