鳥取城攻めの要点
1580年、秀吉は最初の鳥取城攻めを行い、山名豊国を降伏させます。しかし毛利方が城を取り返し、1581年に秀吉は二度目の攻撃を始めます。毛利方は吉川経家を城へ入れ、籠城して対抗しました。
秀吉方は城の周囲に陣城群を築き、補給を断つ兵糧攻めを進めます。最終的に経家が自らの命と引き換えに城兵や民衆を救おうとして切腹し、鳥取城は開城しました。因幡を押さえた秀吉は、次に毛利方の備中高松城へ向かいます。
最初に押さえる4点
- 鳥取城攻めは一回ではない。1580年の最初の攻撃と、1581年の二度目の攻撃に分けて見る。
- 城を守ったのは、毛利方から入った吉川経家。
- 秀吉方は太閤ヶ平を本陣とする陣城群を築き、城を広く包囲した。
- 鳥取城を押さえたことで、秀吉は中国攻めを備中高松城へ進める。
関係人物と場所
| 鳥取城 | 久松山の険しい山城。山上ノ丸・山下ノ丸・太閤ヶ平の違いは城の個別ページで確認できます。 |
|---|---|
| 羽柴秀吉 | 中国攻めを担う織田方の主将。三木合戦に続いて、鳥取城を大規模に包囲します。 |
| 吉川経家 | 毛利方として鳥取城に入り、籠城軍を率いた人物。開城にあたり切腹します。 |
| 毛利輝元 | 鳥取城を山陰の前線として守ろうとした毛利氏の当主。 |
| 太閤ヶ平 | 秀吉が鳥取城攻めで築いた陣城群の本陣。城を遠くから囲む包囲網の中心として残ります。 |
| 黒田官兵衛 | 播磨・姫路を基盤に、秀吉の中国攻めを支えた人物。鳥取城は秀吉軍団が西へ進む途中の大きな段階です。 |
一本の流れで置く
- 1580年、秀吉が最初の鳥取城攻めを行い、山名豊国が降伏する。
- 毛利方が鳥取城を再び押さえ、吉川経家を城へ入れる。
- 1581年、秀吉が二度目の鳥取城攻めを始める。
- 秀吉方は太閤ヶ平などの陣城群を築き、城への補給を断とうとする。
- 籠城が続き、城内の食料は尽きていく。
- 吉川経家が切腹し、城兵や民衆の助命につながる形で鳥取城が開城する。
- 秀吉は因幡を押さえ、1582年の備中高松城の戦いへ進む。
太閤ヶ平まで見ると、鳥取城攻めが変わる
鳥取城は急峻な久松山を使った城で、城そのものを正面から攻めるだけでは難しい相手でした。そこで秀吉方は、城の周囲に陣城群を築き、道と補給を押さえる包囲戦を行います。
鳥取市は、太閤ヶ平を秀吉が兵糧攻めの際に構築した陣城群の本陣として紹介しています。城を一つ囲むというより、山と周辺地域を含む広い範囲を支配しようとした戦いだった、と考えると分かりやすいです。
兵糧攻めを、秀吉の策だけで見ない
鳥取城攻めは、兵糧攻めの厳しさでよく知られます。そこには城兵だけでなく、城内にいた人々の苦しさがありました。戦術の巧さだけを面白がるより、長期包囲が人にどんな負担をかけたかも一緒に見る必要があります。
吉川経家は、城兵や民衆を救うために自分の命と引き換えにした人物として鳥取市に伝えられています。秀吉側の進出だけでなく、毛利方の城主がどんな選択を迫られたかも、同じ戦いの一部です。
三木から高松城へ、何が変わった?
| 戦い | 秀吉軍団の課題 | つながる点 |
|---|---|---|
| 三木合戦 | 播磨の背後を安定させる。 | 付城を築く長期包囲を経験する。 |
| 鳥取城攻め | 山陰の前線を押さえ、因幡を平定する。 | 陣城群による大きな包囲網を作る。 |
| 備中高松城 | 毛利氏との前線で講和まで含めて処理する。 | 本能寺後の中国大返しへつながる。 |
ここだけ覚える
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5問クイズ
Q1. 鳥取城攻めの二度目の籠城を率いた人物は?
A. 吉川経家です。
Q2. 秀吉の本陣となった陣城群の中心は?
A. 太閤ヶ平です。
Q3. 鳥取城を落とすために行われた方法は?
A. 補給を断つ兵糧攻めです。
Q4. 鳥取城の後、秀吉が向かった毛利方の城は?
A. 備中高松城です。
Q5. 鳥取城攻めを前後の戦いとつなぐなら?
A. 三木合戦での長期包囲から、備中高松城の水攻めへつながる段階です。
参考にした資料
- 鳥取市: 鳥取城跡附太閤ヶ平
- 鳥取市: 鳥取城の年表
- 鳥取市: 吉川経家と鳥取城
- 鳥取市: 鳥取市のなりたちとあゆみ