なぜ、江戸幕府の後に大坂の陣が起きたのか
1603年に江戸幕府が始まっても、豊臣家は大坂城と大きな財力を持ち、秀頼は秀吉の後継者として残っていました。家康が徳川の政権を続くものにしようとする一方で、豊臣家をどう位置づけるかは、なお解決していない問題でした。
方広寺の鐘銘をめぐる問題は、対立が表面化するきっかけの一つです。ただし大坂の陣をそれだけで説明することはできません。豊臣家の処遇、大坂城という強い拠点、集まった浪人、徳川政権との力関係が重なり、冬の陣と夏の陣へ進みます。
関ヶ原後も大坂城には秀頼と淀殿がいて、豊臣家は存続していました。
豊臣方は城に籠もり、徳川方の大軍に対抗できる条件を持っていました。
間に和睦と堀の破却があり、戦い方と城の条件が大きく変わります。
冬の陣から夏の陣へ、豊臣家の終わり
- 01江戸幕府の後も、豊臣家は大坂城に残る
秀頼と淀殿を中心とする豊臣家は、大坂城を本拠にします。徳川政権が始まっても、両者の関係は安定したものではありませんでした。
- 02方広寺の鐘銘などをきっかけに緊張が高まる
1614年、鐘銘をめぐる問題を含め、徳川と豊臣の対立が表面化します。大坂城には多くの浪人も集まります。
- 03冬の陣で、徳川方が大坂城を包囲する
豊臣方は大坂城に籠もり、真田信繁が築いた真田丸などで抵抗します。冬の陣は、城をめぐる包囲戦として進みました。
- 04和睦の後、大坂城の堀が埋められる
1614年12月に和睦が成立します。しかし城の堀の破却・埋め立てが進み、豊臣方は冬の陣と同じ条件で城を守れなくなります。
- 051615年、夏の陣で再び戦う
両者の緊張は解けず、夏の陣が始まります。豊臣方は城外でも戦い、道明寺・天王寺・岡山方面などで決戦が行われました。
- 06大坂城が落ち、豊臣家が滅ぶ
1615年5月、大坂城は落城し、秀頼と淀殿は自害します。豊臣家はここで終わり、戦国の終わりを示す大きな区切りになります。
大坂の陣を動かした人物
「真田丸」と「夏の決戦」だけで見ない
大坂の陣は、真田丸の活躍や真田信繁の最期だけで語られがちです。しかし全体を見ると、冬は強い大坂城をめぐる包囲戦、夏は堀を失った後の城外での決戦という、性格の違う二つの戦いでした。そしてその間には、和睦と城の防御条件の変化があります。
読み解く三つのポイント
- 豊臣家が残った理由を見る
関ヶ原後も大坂城と秀頼が残っていたことが、両者の緊張を続かせました。
- 冬と夏を分けて見る
和睦の後に堀が埋められたため、同じ大坂城でも守る条件が変わります。
- 戦国の「区切り」として見る
大坂の陣は、豊臣家が終わり、徳川政権が全国を支配する段階へ進む大きな転換点です。
参考にした資料
国立公文書館・大阪市の公開資料を基に、冬の陣から夏の陣までの大きな流れを整理しています。和睦の経緯、堀の破却、各戦場の細かな経過には、史料や研究による検討があります。