1554〜1555年 / 尾張の政治の中心をめぐる争い

清洲城を押さえるまで

信長が清洲城を本拠にしたことは、単なる引っ越しではありません。
尾張守護の斯波氏、清洲側の織田信友、叔父・織田信光との関係のなかで、尾張の政治の中心を自分の足場に変えた出来事です。

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清洲城は、尾張の政治の中心だった

清洲は、守護所が置かれた尾張の中心地です。室町期の尾張では斯波氏が守護、清洲織田氏が守護代として位置づき、城と城下に政治・軍事の機能が集まりました。信長の弾正忠家は、この仕組みの外から急に現れたわけではなく、清洲側の権力関係のなかで力を伸ばした家でした。

斯波氏尾張守護として位置づいた家です。戦国期には守護の実力が弱まり、守護代や有力家臣が政治の前面に出ます。
清洲織田氏大和守家とも呼ばれ、清洲城を拠点に尾張下四郡の守護代として位置づいた系統です。
織田信友清洲側で力を持った人物です。信長は形式上、この清洲側の織田家のもとで活動する立場でもありました。
織田信長弾正忠家の当主として、那古野を基盤に力を伸ばします。清洲を押さえることで、尾張の中心へ進出します。

1554〜1555年、清洲城をめぐる流れ

1554年
守護・斯波義統が殺害される

清洲側の内紛のなかで、尾張守護の斯波義統が命を落とします。守護と守護代の関係は決定的に崩れ、清洲の主導権をめぐる争いが激しくなります。

1554年
信長が清洲側へ圧力をかける

信長は、守護を失わせた側に対抗する立場をとります。これは単なる領地争いではなく、尾張の政治を誰が動かすかという争いでした。

1555年
信友が倒れ、信長が清洲を本拠にする

叔父・織田信光の協力も得て、信長は清洲城を押さえます。以後、清洲は桶狭間へ出陣するまで信長の重要な本拠になります。

清洲城を得たことで、何が変わったか

尾張南部の中心を手に入れた

清洲城は城そのものだけでなく、守護所として育った城下・交通・人の集まる場所を含む拠点でした。信長は尾張南部の政治の中心へ入ります。

「清洲側の家臣」から主導者へ

信長は清洲の権力関係をそのまま受け継いだのではなく、信友を倒して自分の基盤へ組み替えます。ここが後の尾張統一の出発点です。

家中の争いが前面に出る

清洲を得ても、弟・信行を支持する家臣との対立は残りました。次の課題が1556年の稲生の戦いです。

「信長は清洲城へ移った」とだけ覚えると、城を得た意味が薄くなります。 清洲城は尾張の中心を象徴する場所でした。信長はここを押さえた後も、家中・岩倉・犬山の勢力と順に向き合い、ようやく尾張を一つの行動圏にしていきます。

織田信光は、どんな役割だったのか

信光は信長の叔父で、清洲城をめぐる動きでは信長を助けたとされます。信長が単独で清洲を手に入れたのではなく、織田一族の協力と対立が交差した結果として見ると、初期の尾張の複雑さが分かります。

信光の役割を押さえると、信長が清洲を得るには軍事力だけでなく、織田一族の内部で協力者を確保する必要があったことが見えてきます。

ここだけ覚える

  • 清洲城は、尾張守護・斯波氏と清洲織田氏の権力が集まった尾張の政治の中心だった。
  • 1554〜1555年の争いを経て、信長は織田信友を倒し、清洲城を重要な本拠にした。
  • 清洲を得た後も家中の対立は残り、次に稲生の戦いへ進む。

清洲城から、どこへ進む?

参考にした資料

清洲をめぐる政変は、史料や解説によって細部の記し方が異なります。守護・守護代の構造、1554年の斯波義統の死、1555年に信長が清洲を本拠にした流れに絞って整理しました。